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Channel: 櫻木光 | クリエイターズステーション
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第1回 こんにちは、僕が番長です

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こんにちは。
僕はニッテンアルティというTV-CM制作会社のプロデューサーで櫻木 光といいます。
以前、ここで、「ネットとTV-CMの融合」というテーマで文章を書かせていただいたのが縁で、今年から連載コラムを書かせていただくことになりました。よろしくお願いしますね。

書いていきたいテーマは、ずばり「世直し」です。
なんのこっちゃわかりませんが、最近のニュースや仕事の環境やコミュニケーションやなにかを見ているとなんとなく世の中がおかしくなってきてるんじゃないかと感じませんか?
それがなぜなのか?どうしたらよくなるか?そういうことを知りたいと思うんです。偏ってはいますが、CMのプロデューサーという立場から自分の身の周りに起こる奇妙な出来事を、ばっさり切り捨てていきたいと思うのです。自分のことは棚にあげつつ書いていこうと思います。

というわけで、お前は誰だ?と思われるかも知れませんので自己紹介をします。

櫻木 光
株式会社ニッテンアルティ 
チーフプロデューサー
1968年 佐賀県生まれ 38才

(最近の主な仕事)
AGFブレンディボトルコーヒー、TSUTAYA DISCUS借り放題、 AIGアリコ 電話でセレクト保険、森ビル MORI LIVING、シードコンタクトレンズ ネットムービー「ピュアプロジェクト」等

テレビコマーシャル制作を生業にしたいと思って20才の時に九州の佐賀県から東京に出てきました。特に、映画が大好きだった訳ではありません。カメラ小僧だったわけでもない。バンドを組んで音楽に没頭していたわけでもありません。当然広告研究会などに所属したこともないです。ここで詳細を書くわけにはいかないけれど(笑)、はっきりいうと不良でした。運動部で不良。硬派でしたけど。もてあましたエネルギーをなんにぶつけて良いかわからないので、自分が人と戦って勝てるかどうかとか、バイクで人より速く走れるかとかばっかり気にしているようなあほでした。あのころK-1やPRIDEがあったならば、多分そっちの道という選択をしていたと思うのです。それはいいとして。

そんな不良のあほがなんでテレビのコマーシャルなどを作ろうと思ったのか?理由は矢沢永吉のファンだったからですね。子供の頃、本物の人間でかっこいいと思える人はこの方と王貞治と高倉健しかいませんでした。あとマイケル・ジョーダン。

中学生の頃に読んだ『成り上がり』という矢沢永吉の本の冒頭に、いきなり「お前はなにが好きでなにが嫌いか。まずそれをはっきりさせろ」と書いてありました。びっくりして人生が変わりました。しかし、どうしても矢沢永吉を見てみたいんですが、テレビのベストテン番組を見ていても矢沢さんは出てきませんでした。出演拒否。でも資生堂の夏のキャンペーンのCMにいきなり矢沢さんがでてきてプールサイドでモデルの女の人とキスしていました。これだっ!と思ったんですね。CMだ。と。エーちゃんはテレビには出ないけどCMには出るじゃねえか!CM作っていたらエーちゃんに会えるんじゃないのか?そう思ってCM業界を目指して田舎から出てきました。

そして、バブル全盛の血走った目をした大人たちを尻目に、夜中の青山ブックセンターで立ち読みしたACC年鑑に載っていた、あの衝撃のコマーシャルを制作した会社、日本天然色映画社を突き止めて受験し、なんでか合格して今に至ります。
日本天然色映画社は僕が試験を受けたときはその名前だったんですが、入社する時期になぜか、今の「ニッテンアルティ」に社名が変わっていたんですけど。

こうやって、「なんでこの仕事を選んだんですか?」という質問に自分のことを真面目に考えてみると、あまりのあほらしさにうんざりしてきますね。大丈夫か俺?これ書くのやめようかなあ。まあいいか。みんなそんなもんだろう。

最初は、CMの演出家になりたいと思っていました。ディレクターとカメラマンという仕事のことしかはっきりわからなかったからです。ディレクターは監督。「用意、スタート。カット」を言う人。かっこいい。カメラマンは撮る人。ファインダーをのぞいてギャーットまわす。カメラを振り回す。

しかし、採用された時の職種は「プロダクションマネージャー」ということになっていました。なんだそれ?まあいいや。田舎から出てきて友達もなく、金もコネもない俺が、目指した会社に入ることができるんだから、入っちまえばこっちのモンだ。

PMって職種はわからんし、PMはPrになっていくらしい。プロデューサーってなんか悪いことばっかりしてそうな名前だなあ。社会人になってまで悪いことしたくもないな。どんな手を使ってもディレクターになれるようにがんばろう。「矢沢さん、いいですか。もっとオーバーなアクションで、そう、それです。じゃあお願いします。はい本番。よーい、スタート。」これだよ、これがやりたい。妄想。企画とか出し続けておもしろければ認めてもらえるだろう。そう思っていました。1991年の春。

甘かったですねえ。本当に甘かった。それから数年、地獄の日々が待っていることも知らず、ただただ自分に都合の良いことを考えていました。
その、制作の時の地獄の日々はおいおい書いていこうと思います。

プロダクションマネージャー。PM。日本語で言うと制作進行係。
主な仕事は、テレビCMの制作時の原価管理。スケジュール管理。テレビCMにはあらかじめ決まった予算があります。上司プロデューサーがいただいてきた仕事の予算を知り、スタッフのギャラ、機材費、スタジオ費、食事代、交通費、編集や録音の仕上げのお金、音楽費など、百数十項目におよぶ支払いに対して一つ一つ金額を交渉し管理して最終的に利益を上げる。
企画段階では、内容に沿った写真や映像の資料を探し、イメージの具現化を図る。制作段階に入ると、各スタッフのスケジュールを調整し、打ち合わせや撮影などの日どりを決める。ロケの場合はロケ地を探してさまよい、写真をとりロケハンの資料を作る。打ち合わせで説明をして、監督のイメージに合ったロケ地と使用の交渉をする。当然、作業中にはおなかもすくので、みんなの食べる朝昼晩のごはんの手配をする。おいしくなければならない。撮影の進行表をつくり、誰がどこで出番なのか、何時にどこにくればいいのか、何を用意すればいいのかを伝える。天気や事故の心配をして、不測の事態に備える。現場では、かちんこをたたき、ビデオ収録をして、スクリプトを付ける。撮影したフィルムを現像所に入れ、引き上げてテレシネし編集室に持ち込む。編集して録音して原版ができるが、その原板を管理して、ONAIRプリントを作成し、広告代理店やテレビ局に納品する。

書き出すだけで疲れちゃうような仕事。みんなが思い思いのわがままな気持ちを伝えてきて、ほぼそれをクリアする。NOの無い仕事。表現する人を甘やかし、気分良く仕事をしてもらうことで作品のクオリティをあげる。話は刻一刻と変化していき、それにいちいち対処する。睡眠時間は減っていき、体力は消耗する。すべての情報を握っているので代わりはきかない仕事。だからおなかが痛かろうと熱があろうと、眠かろうと、必ず最初に来て最後に帰る役目。いっぱい入った同期の仲間が一人、また一人辞めてゆきます。

プロダクションマネージャーは僕の妄想からは想定外の仕事でありました。
何が何だかわからないうちは本当につらい仕事。機材のこと、編集の技術のこと、専門的知識のないまま段取り屋として動かざるを得ない状況での仕事は、各部署の専門家からするといじめやすいし、だましやすい。だから怒られたり馬鹿にされたりする。元来不良で反抗的な性格。ちゃんとやっているつもりでも、わかっていないから文句を言われるんですが、文句言われりゃカッとくる。惨めな思いもする。

そうかそうか、でもね、俺はCM界のエーちゃんになるんだよ。最初はこうなんだ。こういう思いはしないといかん。エーちゃんだってそうじゃないか。こういうとこからはい上がっていくんだよ。そうやって慰めていましたね。まじで。

頭にくるなあ。やりかえしたい。そういう事件がいくつもおこりました。
じゃあどうするか?反撃しろ、攻撃しろ、自分に負い目をつくらずすすめ。『成り上がり』にはそう書いてあるぞ。弱い自分は鍛えれば良いんだ。わかったふりするのが一番だめだ。わかったふりをしたくない。知らなきゃいけないことがごまんとある。ひとつひとつつぶして行くべきだ。

そう思って、まずスチルカメラを買うことにしました。マニュアルのカメラを買うべきだ。それも撮影部がびびるようなカメラ。そのカメラで自分の撮りたいような写真が撮れれば何かがわかるだろう。ライカだライカを買おう。あほですね。ライカのM-4を40回払いで購入しました。レンズは50ミリを一本。撮影部とまともに話をしたい。撮影の技術を知らなければいけない。そうすればライティングもわかるだろう。照明の技師さんとも機材の話ができるだろう。レンズのサイズ、画角?絞り?被写界深度。なにそれ?シャッタースピード?フィルムの感度????調べていけば知らないことだらけでした。当然スチルとムービーはすこしずつちがいますが、基本はいっしょ。だんだんわかってきました。

編集で多重合成が可能なヘンリーやインフェルノが出てきた頃。デジタルの編集のことがわかりたいと思えば、マッキントッシュを購入してみたりもしました。リボ払い。マックとモニター。スキャナーとプリンター。いまみたいな動画の編集の作業が簡単だった時代ではないので、ソフトはフォトショップ。
パソコン、デジタルって概念すらわからないで購入したため、これはなんなんだ?というところから学習しなければいけませんでした。訳がわかりません。物にあたれないので説明書をたたきつける毎日。説明書と「一週間で覚えるフォトショップ」という本はぼろぼろでした。ライカで撮影した写真をスキャナーで取り込んでマスクを切ったり、色を変えたり。合成とはなんぞや?と言うことがわかってきました。CGIもわかるようになってくる。なるほど。そういうことか。

そうしていくうちに、いろんな人と話が通じるようになる。時間が読めるようになる。何をすればいいかがわかるようになる。予算も収まるようになる。プロダクションマネージャーの仕事が急速におもしろくなっていきました。ディレクター?ああ、なってみたかったけど、こっちの方がおもしろいや。情報の量と決断力。男らしい仕事じゃないか。これでいこう。これで俺はエーちゃんになれるだろうか?

そうなると、この仕事のコミュニケーションのこつみたいな物も見えてくるものです。結構みんな、それが良いか悪いか判断に苦しんでいる。だったら自分が良いと思ったことは、技術の裏付けができるのならば、表現についてでも胸をはって、大きな声で「これが良いと思います」と言うべきだ。そしたら意見が通りやすくなるもんだ。

徐々に経験も増えていき、部下が付くようになっていきました。そうなると新しい問題に直面するようになっていきます。
僕は、部下になった若者たちに、自分が感じたこと、してきたことと同じ事を求めていました。それが当然だと思っていたからですね。「ごちゃごちゃぬかしてねえでやれよこら」と。だから部下にずいぶんきつくあたりました。怒鳴ったし蹴りました。ついてこれない奴も出てきます。それでも態度は変えませんでした。
「俺もお前も、金をもらっているからにはプロ。プロならプロの仕事をしなくちゃいかん。お客の望むことの想像以上の仕事をして見せないと、次がないのだよ。喜んでもらえない。だまって言われたことだけやってて一人前になるわけがない。自分で考えて、作戦をたてて、調べて、知って、試して、失敗して、また考えろ。人にいちいち聞くんじゃねえ。こっちの方がいいとか悪いとか、自分の意見を俺に伝えろ」。

そういうことを強い口調で部下に要求しました。特別な意識のある奴以外はついてくるわけがありません。そうやってもがき苦しんでいる様やそれでも自信満々のぼくの態度を揶揄して、広告代理店のクリエイティブディレクターが、僕にあだ名をつけました。「番長」でした。

そのあだなが急速に浸透していき、僕の呼ばれ方は「番長」になっていました。「矢沢永吉」にあこがれて「矢沢永吉」になりたいと思って、一生懸命にやってきたら「番長」になっていました。いいんだろうか?ジェダイの騎士になろうと思ったらダースべーダーになっちゃった。みたいなニュアンスだなあ。そうでもないか。「番長」。結構いいかも。まあいいや。

プロダクションマネージャーに自分の意志を持ち込みながら仕事をしていると、その考え方と行動を面白がってくれる人が、「これやってくれないか?」って僕に仕事を直接発注してくれるようになっていきました。そうすると、自分で会社の中に一つ商店を構えるような状況ができあがります。自分の器量と責任で仕事をこなさなければいけなくなる。それはプロデューサーという事になります。そういうお客さんが増え始めたので、僕の立場はプロダクションマネージャーからプロデューサーに変わりました。2000年のことです。

ディレクターになろうと思ってプロダクションマネージャーを9年やってプロデューサーになっていました。これが「番長プロデューサー」の成り立ちです。

まあ、そんな感じが僕自身の話ですね。

91年からCMの仕事をはじめて15年になります。制作を8年やって、1年アメリカの会社に出向し、帰ってきてプロデューサーになって6年。
駄目な奴だと思われないように、めちゃめちゃ意地を張って来ました。自分で引いた一線、これ以下は駄目な奴、というラインを超えないようにがんばっていた気がします。できればこれからもそのラインの基準を上げ続けていきたいものですが。

時間の経つのははやいものです。若手若手といわれていたのに、あっという間におっさんになっている自分がいます。

一周りも歳が違う新入社員が入ってくるようになって、さすがにいろんな事を感じるようになりました。僕も会社にはいったころ「最近の若いもんは」的なことをずいぶん言われて嫌な思いをしましたが、僕も今、若いもんを見てそう思うのです。
でも果たして、若い奴だけがだめなんでしょうか?そうじゃないんでしょうね。だめな奴がいっぱいいるし、世の中の空気がちょっとおかしい。希望がもてないというか、どんづまっているんでしょう。人間が弱いし軽い。

村上龍の小説「半島を出よ」のなかに、北朝鮮の軍隊が福岡を制圧するときに、日本人のイメージをこんなかんじで語る下りがあります。「なんだこの国は?日本人はこのティッシュペーパーのようだ。高度な技術で精巧に作られているが、軽くて薄くて柔らかくて破れやすい」。

実際にどう見えるんでしょうか?こういう事でいいのでしょうか?民族や国の心配をするほど僕は大きくもないし偉くもないし、する気もないけど、自分の身の回り。少なくとも仕事する環境にいる周りの人間にはそうあってもらいたくないと願うのです。やるなこいつって奴らと仕事がしたい。
こういう仕事をしている人、めざす若い人に僕のメッセージが熱として届いて、自分なりになんか考えてくれたらいいな。と思います。


第114回 櫻木光氏×豊原功補氏対談 (番長プロデューサーの世直しコラム100回記念)

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第114回 櫻木光氏×豊原功補氏対談 (番長プロデューサーの世直しコラム100回記念)

クリエイターズステーションきっての人気コラム「番長プロデューサーの世直しコラム」が、この4月で100回を迎えました!
これを記念して、今回の「あの人に会いたい!」は、コラム筆者の櫻木光さんと、櫻木さんの友人であり熱心なコラム読者でもある俳優・豊原功補さんとの対談をお届けします。同じバスケットチームに所属するなどプライベートでも交流が深いお2人だからこそのコラム裏話が飛び出し、対談は盛り上がりました!

足掛け8年で100回到達
思いがけない反響にビックリ!

この4月でコラムがついに100回を迎えました!

櫻木さん:足掛け8年ですね。1ヶ月に1万ずつ貯めると、8年で100万円たまるんだなぁ、としみじみしていますよ。

豊原さん:ホントに1万ずつ貯金していたの?

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櫻木さん:いえ、このコラムでお金はもらっていません。お金をもらっちゃうと、好きなことがかけなくなるから。でも、僕は一度も締め切りに遅れたことがないんですよ。仕事が忙しいときは、徹夜で書いたこともあります。

豊原さん:そういうところは、櫻木は真面目だよねえ。

最初に豊原さんが櫻木さんのコラムを読んだのは?

櫻木さん:仕事の現場で一緒になって、その待ち時間に見せたのが最初ですね。

豊原さん:最初は、電車で化粧している女性にモノ申したりしていたよね。昔、近所にいた口うるさいジジイみたいで、面白かったなあ。

櫻木さん:最初は軽い気持ちで始めたんですが、内容によってはTwitterなどで拡散して、40,000ヒットのアクセスがあったりして、本当に驚きますね。反響があった回は、多くの人に見られている分、ネットでボロカスに言われているのを見かけることもあり、最初は調子に乗って書いていたんだけど、だんだん書けなくなりましたね。書く内容のウラを取るために、いろいろ調べたりして、気を使うようになりました。

豊原さん:最初の頃は、ウラなんて取らなかったでしょ?

櫻木さん:最初は取ってないですね。ウラ取るためにネットで調べると、知らなくてもいいことまで知ってしまう。腹が立つことがあって、それについて書こうかなと調べると「表面的には腹が立つけど、実は深い理由があったんだ。」と知ってしまって、書けなくなる。

豊原さん:そこなんだよね。モノを知ると、書けなくなる。

櫻木さん:そんな状況になってきて、言葉の使い方に苦心するようになりましたね。役者の演技と一緒で、不特定多数の人に自分の表現を見せるのは、ものすごく難しい。

豊原さん:モノを知りすぎると、書けない、表現できない、というところは確かにあるんだよ。「王様は裸だ!」と言ったのは子どもだったけど、年を取ってからも子どもの部分をあえて残して、大人にならない努力も必要だよな。

櫻木さん:そう、自分を棚に上げることも必要ですね(笑)。

「日本の幼稚な社会に切り込む」スタイルにシンパシー
コラムを通して櫻木さんが見える!?

確かに、最初のころとコラムのテイストが変わってきていますね。

櫻木さん:昔のコラムを読むと恥ずかしいですね。8年前というと、まだ30代後半。

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豊原さん:アルバムと同じだよね。でも、最初の頃は丸裸で書いていたから、ストレートに面白かった。「日本の幼稚な社会に切り込む」スタイルに、シンパシーを感じたね。ああ、これは、自分と同じ感性を持っている人だ、と。普段から話していても、櫻木とは共通の感覚があるんだよね。生き方に対する感覚、仕事への向き合い方、食い物、飲み物への思いも一緒(笑)。こういう時にはこういう形が一番ステキ!と感じる水準も同じだった。

櫻木さん:豊原さんにはプライベートも知られているので、嘘がつけないんですよ。コラムを通して、自分のことを把握されてしまうんです。

豊原さんは、コラムを読むと櫻木さんのことが見える?

豊原さん:調子が悪い時は、コラムを読むとわかるんですよ。もちろん、プライベートを知っているからわかるんだけど。でもね、話をしたり、書いたものを読んだりして「そうそう!」と膝を叩きたくなる人は少ないから、そんな人が元気がないと、こっちが寂しくなる。だから、櫻木のコラムは「世直しコラム」なんだけど、俺が世直ししたくなるというか、「櫻木直し」をしたくなる。

櫻木さん:ダメなときは、バレますね。そんな時に一緒に飲んでいると、必ず痛いツボを刺されるんですよ。もうそれが、本当にピンポイントにその通りで、「スイマセン」としか言えない。

豊原さん:弱っていることはわかるんだけど、「今のお前は最悪だ!世直しどころじゃない!」と、グサッと言っちゃうんですよ。それで、トボトボ帰っていく櫻木の背中を見て、ああ言い過ぎたなあ、と思うんだけど(笑)

櫻木さん:反論できないので、背中を見せるしかないんです(笑)

悩んでいる若い人を思い浮かべながら書く
「今が勝負だよ」と誰かが言わなければならない

豊原さんから見て、櫻木さんはどんな人ですか?

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豊原さん:海綿みたいな人(笑)。グショグショに濡れているか、カラカラに乾いているかのどちらかで、ちょうど良く湿っていることはない人です。

櫻木さん:豊原さんは、人のことをよく見ていますね。バスケの時も、メンバーや対戦相手をすごく素直な目で見ている。

豊原さん:人を見ることは好きなんだよね。見ていると、共感する部分が生まれてくる。

櫻木さん:だから、飲んでいて、適当な建前を言うと、すぐに突っ込まれるんですよ。しかも、的確なので、「あんた見ていたんかい!」と言いたくなる。

それは、飲むときもちょっと緊張しますね。

豊原さん:でも、飲み始めたら昼まで飲むからね。最近はそこまでじゃない?

櫻木さん:基本的に、朝日は見ますね。

豊原さん:枠をはみ出すことも大切だから。罪悪感が少しはないと、人間面白くなくなっちゃうでしょ(笑)

櫻木さんのコラムは、若い人に向けてのメッセージですよね。

櫻木さん:仕事の部下だったり、バスケットチームの若い奴らだったりを頭に浮かべながら書いたりしますね。

豊原さん:俺たちが若い頃って、バブルの全盛期で大人がすごく楽しそうだったんだよね。大人は楽しそうだから、早く大人になりたい、って思っていた。今の若い奴らって、面白い奴もつまらない奴もいるけど、俺たち大人は楽しいんだぞ!って見せることは大切だよね。

櫻木さん:そう考えると、日本が幼稚な社会なのは、大人である自分たちのせいになってしまうのだけど(笑)、そこは棚に上げて、誰かが言わないといけない。自分が将来、どうなっていくのか、何かになれるのか、悩んでいる若い人たちに、今が勝負だよと言ってあげないと。

豊原さん:例えば仕事で、そういうことを言うと、若い奴らの反応はどうなの?本人がわかっていることもあるだろうし、言われたくない、ということもあるだろうし。

櫻木さん:もう聞きたくない、という反応をする奴もいますよ。でもそれは、響いている証拠ですから。

SNSの普及で人間形成が変わる
宇宙人になろうとしている時代に「世直し」を!

この8年の間に、SNSが爆発的に普及しましたけど、コラムに影響はありましたか?

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櫻木さん:めちゃくちゃ影響ありましたよ。コラムを広めるためには有効なツールですけど、書きたいことが書けなくなる側面もあります。

豊原さん:俺も告知用にFacebookを使っているけど、宣伝ツールとしては本当に便利ですごいね。だけどさ、人間の付き合い方は様変わりしたね。例えば、昔はファンレターは封筒に入って「私信」で他人は見ないけど、今はTwitterやFacebookに書き込むと周りの人も見ているわけだから。

櫻木さん:意地悪な感情をさらしたい、という意識も感じますね。しかもそれが、否定的な意識ではなくて「良いことを言ってやった」と肯定的に思っている。

豊原さん:そういう指摘は、俺が櫻木にしているように、個人的な付き合いの中であったけど、今は面識がないのにそんなことを言えるのは怖いね。

櫻木さん:自己顕示欲を簡単に示せるんですよね。

豊原さんのような芸能人の方も、SNSの登場で、距離感が変わりましたよね。

豊原さん:おごったような言い方になるかもしれないけど、昔は、芸能人やスポーツ選手は、不特定多数に向けて遠くから話している感じだったけど、今はSNSを通せば会話の立ち位置が降りてくるというか、1対1で話しているような、同じ距離感で発信している不思議な感覚がありますね。これは誰に向けて言っているんだろうと感じる時もある。

櫻木さん:自分たちの世代は、PCもケータイもスマートフォンも大人になってから手にしたけど、そうではない若い世代は感覚がまったく違いますよね。

豊原さん:スマホをいつも握りしめているしね。簡単なイジメ発生装置だから、怖くて離れられないんだよ。そんな状態で10代20代を過ごせば、人間が今までとは変わってきて当然。

櫻木さん:生まれたときからスマホがある世代は、もっと違う人間になるんでしょうね。

豊原さん:このまま行くと、宇宙人になるんだろうな、と思うよ。頭でっかちで指がやたらに長い、あのイメージ通りの宇宙人。そこを櫻木には世直ししてほしいね!宇宙人だから、明らかにおかしいことをやるんだよ。それを身近な例を挙げて書いてほしい。

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櫻木さん:そうですね。100回もやっていると、ネタが付きて怒りが収まってきたような気もしていたのですが、豊原さんの話を聞いていると、まだまだ書けそうですね。

豊原さん:頼むよ。まずは、飲み屋で話をしながらスマホをチェックしている奴を何とかしてほしいね。まぁ、飲んでいる席で俺の前でスマホをチェックしたら、「お前何やってんだ!」って説教する前に取り上げるけどね(笑)

取材日:2015年4月6日
ライター:植松

Profile of 櫻木光(さくらぎ ひかる)/ CMプロデューサー

クリエイターズステーションきっての人気コラム「番長プロデューサーの世直しコラム」筆者者。足掛け8年で、連載100回目を迎える。

 
 
 
 

Profile of 豊原功補(とよはら こうすけ)/ 俳優

映画『南極料理人』 『寄生獣』 『新宿スワン』 『ストレイヤーズ・クロニクル』
テレビドラマ『平清盛』 『レディー・ジョーカー』 『悪貨』 『マザー・ゲーム』などに出演。
2007年、『受験のシンデレラ』で第5回モナコ国際映画祭の最優秀主演男優賞を受賞。
テレビ、映画、舞台、CMなど多方面で活躍中。

<受賞歴>
2003年、ギャラクシー賞「センセイの鞄」。2005年、アメリカ シネマパラダイス映画祭 最優秀作品賞「心中エレジー」、ベルリンアジアパシフィック映画祭 最優秀作品賞「心中エレジー」。2007年 モナコ国際映画祭 最優秀主演男優賞「受験のシンデレラ」。

 

第102回 仕事はすればするほど

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結構、本業が忙しくなってきて、たいそう有り難い話ではあるけれど、最近、大きな仕事で、一日に3件それぞれなんらかの問題が発生して、偉い人3人から別々にこっぴどく叱られた日がありました。

46歳にもなって、日に3回、違う人から叱られると、さすがに叱られ慣れていたとしても凹むものです。
よく考えていれば未然に防げた事なのかもしれないけれど、人に任せたり、その後の確認をしていなかったり、たまたまやる事が重なって手が回らなかったりして。何の言い訳もできない内容だった事は確かで、携帯電話を持ったまま、ぺこぺこ頭を下げる、マンガに出てくる昭和日本人サラリーマンの様な姿だったと思います。

そんなこんなで、その日起きた問題たちに対処して、メドが見えたところで家に逃げ帰る事にしました。駅から家まで、とぼとぼ歩きながら情けない気持ちにとらわれていました。何やってるんだかよーと。

22歳でこの仕事に就いて、この夏で47歳になるんだから、CM制作25年。「ど根性ガエル」というマンガに出てくる初老の学校教師、町田先生はいつも「教師生活25年!こんなに悲しい事はない!」とか言いながら泣いてたなあ。とか。あの先生と同じ年か?なんか想像と違うなあ。いくつになっても叱られるんだなあ。とか思いながら、とぼとぼ。

明日の朝ごパン(朝食にご飯ではなくパンを食べること。)とかお茶とかを買って帰ろうと思い、通りかかったコンビニにすっと入って、マンガや雑誌が置いてある棚を眺めていたら、いつもと違うなんか場違いな本が目に入りました。

『田中角栄 100の言葉 ~日本人に贈る人生と仕事の心得』  別冊宝島編集部 編

田中角栄の写真にオレンジ色の文字でタイトルが書かれたその表紙にすごく迫力があったので思わず手に取っていました。
開いて右のページに太い文字で田中角栄の名言が書いてあり、左のページにはその言葉が発せられた状況や時代背景などの説明が書いてある。よくある構成の本でした。
こんな本コンビニで売るんだ?

ぱらぱらとページをめくっていたら、あるページに目がとまり、読んで、びっくりしてしまいました

「仕事をするということは文句を言われるということだ。
ほめられるために一番良いのは仕事をしないこと。
しかしそれでは政治家はつとまらない。批判を恐れずやれ。」

そう書いてありました。

田中角栄に話しかけられているような気分になり、そのページに慰められていました。
ちょっとニュアンスが違って、ちゃんと仕事しなかったから怒られたんですけどね。まあいいや。

うれしくなっちゃって、その本をカゴに入れてパンとお茶と一緒に買って帰りました。
一気に読んでしまい、夜中に清々しい気分になりました。
あっという間に元気になっていました。
言葉ってすごいなあ。単純な人間です。

田中角栄の残した名言をネットで検索してみると

「君たちね、自分の置かれてる立場を有り難てえ事だと、思わんとダメですよ」

「いやなことは、その日のうちに忘れろ。自分でどうにもならんのにクヨクヨするのは阿呆だ」

と書いてある。

以前このコラムに田中角栄のことを書いた事がありますが、そのときにも調べた田中角栄の人物像、落ち込んだ夜にたまたま出会ったこの本に書いてある事を読んで感じた事は、この人は豪快な人ではなくて、緻密に緻密にものを考えて、考え抜いた挙げ句に、それでもダメなら知らんぞ。と、肚(はら)を決めてるんだなあ。という事。

決して独りよがりではなく、他人とのコミュニケーションを大切にして、相手の物差しを使って思考して、地ならしをしてから、豪快な技で自分のやりたい事を通す。という事。

そうじゃなくちゃこんな言葉は出てこない。

「いやなことは、その日のうちに忘れろ。自分でどうにもならんのにクヨクヨするのは阿呆だ」の、「自分でどうにもならん」ところまでやる事はやってから悩むのをやめろ。と、おっしゃっているんだ。

まだまだ足りないなあ。
細かくやって強引に決める。というのがスタイルだったんじゃないのか俺?
ちゃんと仕事しよう。と思った夜でした。

第103回 麻布十番の焼き肉屋で

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先日、会社の外で打合せがあって、久しぶりに麻布十番で終わったので
昔、よく通っていた焼き肉屋さんで晩ご飯を食べようと思ってその店に行きました。

店に入るとなんか変。
お客さんはいっぱい居て、それぞれ、じゅーじゅーと焼き肉を焼いているんだけど、なんか変なのです。みんな無言。

適当に空いている席に座って、注文をとりにくるのを待っていましたが一向にその気配すらない。ん?どうしたの?

すると店の奥で怒鳴り声が聞こえたので、そっちを注意してみたら、何となく雰囲気が変な原因がわかりました。

一番奥のテーブルで、初老の男女の客が店のママさんにクレームをつけている。
何があったんだろうと聞いていると、なんだかそこの席の真上にあるエアコンからゴキブリが落ちてきて、気分が悪いからこの店を閉めて保健所に検査させろ。という様な事を怒鳴っている。

あ〜あ、なんだかなあ。久しぶりに来た、元行きつけの店に入ったら、またこんな事に遭遇か。なんでこういうとこにばっかりあたるんだろう?ゴキブリがふってきたことはないけどね。仕方ない、ちょっくら成敗してやるか。と。

iPhoneのムービーを録画にして、奥の席に近い席で座り直して、録画しながら、どんな顛末なのか黙って勝手に聞いてみた。

初老の男女は身なりもちゃんとしていてヤクザには見えない。チンピラでもない。男は半ズボンに白いポロシャツ着て、紺の麻のジャケット、素足にローファーみたいな格好。背が高くて痩せていて日焼けしている。ゴルフの帰り?一見金持ち風。女の方は、首にスカーフを巻いたまま、焼き肉屋のエプロン着て、文句を言いながらむしゃむしゃ食べているので、どんな格好かはわからない。

店のママは、そいつらに、ゴキブリが出た事でものすごく怒鳴られている。

そいつらの言い分は、

  • 焼き肉を食べていたらゴキブリが落ちてきた
  • こんな不衛生な店は、今すぐ営業を停止しなければいけない
  • いますぐ保健所に電話して係の人間を呼べ
  • 呼ばないなら保健所には知り合いがいるからこっちから電話してやる
  • ゴキブリが落ちてきた時、おしぼりでさっとゴキブリを片付けた店員の態度が気に食わない。謝りもしない
  • 今後一切こういう事は起こしませんという念書を書け。(ママは念書を書かされている)
  • その念書にはこの店の社判を押せ

と。

近くのテーブルで食べていた外国人の客の集団に向かって、わざわざ英語で、「この店はゴキブリが出る様な不衛生な店だから食べない方がいいぞ」みたいなことをわめき散らしている。
「お代はいりません」といったママの言い方が気に入らないと言って怒鳴り、「お代を頂く訳にはいきません、申し訳ありませんでした」と言え。と強要して何度もママに復唱させたりしている。
それに加えて、ママの運転免許証と保健証書をコピーしてよこせ。といいだした。

こりゃあ、完全なモンスタークレーマーだな。チンピラじゃなさそうだし。

と、そこで、iPhoneでムービーをとっている僕に気がつき、その男がこっちにやってきた。
「なに撮ってるんだ、この野郎!」
これで僕は我慢ができなくなった。

「あのー、撮られたらヤバい事でもしてるんですか?へへへ」
「口を挟んで申し訳ないんですけど。僕はこの店の常連客で、よく来るんですけど、今日も焼き肉食べにきたんですけど、注文も取りにこないのでなんかあったのかなあ?と思って、さっきから話を聞かせてもらってました。録画しながらね。あのね、ゴキブリが出たのは嫌な事だとは思いますけど、常連の僕だって嫌な気分になると思うんですけど、平たくいうと、たまたまでしょ?
そもそも言ってることがちっちゃくないですか?
たまたまの事にそんなに怒られても誰も対処の仕様はないと思いますよ。
飲食店なんでゴキブリが出る事もありますよ。あなたの家にもいっぱいいますよ実は。ゴキブリだから。それでもそんなにゴキブリが嫌ならゴキブリのいない星に行った方がいいですよ」

それを聞いて女の方が口を開いた
「この間ね、はじめてこの店にお邪魔したんですけど、とってもおいしかったので、またこようね〜なんていって、楽しみにしてきたんですよ。それがこれでしょ?とっても残念で仕方ないんですよ。店員の態度もおかしいし、謝りもしないでさっさとゴキブリ片付けちゃうからいつもの事なのかなあ?と思って、、、」

「まあ、それで念書書かすとか、店閉めろとか、保健所呼べとかいう話にはならないですよね。感情と事実は分けましょうよ。あなたの店への期待はさておき、事実はゴキブリが出た。それだけですよね。そういう場合の飲食店での態度は、一言文句言って、もう何も食べないでサッと帰って二度と来ないか、一言文句言って、でも気にせず楽しく食べるかどっちかだと思うんですよね。ここには他にもお客さんがいて、それぞれ楽しく晩ご飯を食べてるわけで、たまたまゴキブリが落ちてきたかわいそうな人の不幸を分けてもらいたくないんですよね。いちいち騒ぐなよ。店に対してだけ話をしてると思ってるんでしょうけど、早い話が他の客からすると迷惑なんですよ、あんた達のねちねちした態度は。立場的に無抵抗な人間をいたぶるなよ。一回言えばわかるだろう。ついでに言うとその店員はミャンマーから来たばかりで日本語下手なんだよ。なんて言っていいかわからなかったのさ」

すると、僕が誰でどんな人間なのか必死に値踏みしていた男の方が一言言いました。
「お前には関係ねえ」

「関係ねえだと?お前は馬鹿か?俺は常連客で、ここで焼き肉を食べるのを楽しみにして来てるんだぜ。それをお前らの気分晴らしのために、店の奴らがつき合わされて、注文すら取りにこねえし、お茶も出ないんだぞ。多分こんな気分じゃ今日はここで焼き肉食べる気分じゃなくなるしな。お前にゴキブリが降ってこようがこまいが、それこそ俺には関係ないんだよ。腹が減って、肉食いたいだけだからさ。それをお前だけが邪魔してるんだぜ。関係なくねえだろうがよ。それくらい理解しろよ。お前のための世界じゃねえんだからさ。何が保健所だよ。何の権限があっててめえはそんな事ぬかしてんだ?」

その男
「どうでもいいけど、さっきお前、録画してたよな。それをネットにあげたりしたら法的措置を取るからな」
「法的措置ってどんなそちなんすかね?そういう言葉をつかったらビビるとでも思ってるんすか?じゃあ今から警察呼んできますからはっきりさせましょうよ。あんた、コンビニの店員を土下座させてんのとあんまり変わんないからさ。捕まるんじゃないの?さっき念書とか書かせてたし。ばっちり証拠も録画してるしね。何回も同じ言葉で謝らせてたし、まさにモンスタークレーマーだからね。」

とかなんとか言い合っていたら店のママが割って入り
「お客さん、ありがとうございます。もういいです。ゴキブリが出たのは事実ですから、飲食店としては失格です。今後気をつけますから今日は勘弁してください。とにかく、お代は結構ですからお引き取りいただけますか?あ、お代を頂く訳にはいきません、申し訳ありません。だったかな?」

クレーマーは
「いや、お金払わないとそれが狙いみたいに見えるのは嫌だから払います」
「いりません」「払います」の押し問答があって、
「じゃあ半額払ったら?」と僕が笑いながら言ったら、キッとにらまれた。
で、僕に向かって
「さっきの動画、ネットにあげたりしたらとんでもない目にあわすぞ」

「俺が誰だかわかんないのに、とんでもない目にどうやってあわせるんだかね。しかし、そんなにネットにあげられるのが嫌なんですね。こんだけ顔がはっきり写ってればお前の名前も住所も調べりゃわかるしな。俺がどうするかは今後のあんたの出方次第だろうね。面白い動画だからさ。楽しみですね」とお返事しました。
そしたらすごすごと帰って行かれました。結局1円も払わずに。

そいつらが帰ってから、店のママは、各テーブルを謝って回っている。客がそれぞれ「ママが悪いんじゃないよ、大変だったね」といって慰めているから、ママがわんわん泣いている。悔しかったんだろう。一時間くらい文句を言い続けていた事になるみたい。飲食店って大変だなあと思った。

お客様は神様です。という意識はこうなってくると、考え直さなければならないだろう。

お客様は神様だが、お前なんか客じゃない。

と判断するレベルを事前に個々に決めてから商売しないといけない。
モンスタークレーマーみたいな人間のおかげで、その仕事自体が嫌いになってしまうような嫌な事が起きるようになってきたからだ。
理不尽なクレームが「お前なんか客と認めない」というレベルに達したら逆ギレしてもいいのです。
本当に世知辛い世の中になってきた。息苦しい。

しかし、モンスタークレーマーは馬鹿だからさておき、そういう騒ぎの中で知らん顔してよく焼き肉焼いていられるもんだなあと、他の客に腹が立った。なんか言えよ。相手が何者だったとしても関係ないじゃないか。楽しく晩飯食うのを邪魔されている訳だから全力で怒るべきだ。

クレーマーが帰ってから
「何だあいつら、気分悪いなあ。無銭飲食が目的だなありゃ」とか大声で言いだす奴らに、現在進行中に言えよそんな事。と思う。
かっこわるいと思わないのか?と。

第104回 板挟み商売

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どんな仕事でも、仕事の一番難しいところは「板挟み」の状況になる事ですね。

CMプロデューサーをやっていると、本当にいろんな板挟みにあって
ぺっちゃんこになるんじゃないか?というくらい圧迫されるものです。

何にそんなに挟まれるか?平たく言うと「予算とクオリティ」ですね。昔みたいにおおらかな時代じゃなくなって、いろんな事がガラス張りのなかでCMを制作する環境になりました。当然、予算も厳しくなりました。どんぶり勘定も御法度になった昨今。仕事をいっぱいまわしているプロデューサーにもアドバンテージはなくなりました。

CMプロデューサーは、発注主である広告代理店のクリエイティブの人の希望を満足させてあげられないと、次の仕事の発注がもらえません。だから、一生懸命希望をかなえようとする。どんな仕事でも、発注主の満足、が一番の目標だからです。
しかし、その仕事の予算の話をするのは、広告代理店の営業の部門で、同じチームで動いていますが、同じ人ではなかったりします。同じ方向を向いていても、大切にしている事が立場によって少しずつ違うものです。

企画を立てている段階で、クリエイティブのチームから、ああしたい、こうしたい、と面白い事がどんどん出てきます。営業チームからは、これくらいの予算です、という予算感が伝わってくる。どんどん出てくるアイデアほど予算はどんどん増えたりはしないです。当たり前ですが。んー。できるかな?という事になる。

ただ企画を立てている段階で、それはできません、あれはできません、なんて口に出すと、企画がどんどんしぼんで行くので、どっちらけのプロデューサーになってしまいます。家のリフォーム屋みたいにあれはできません、これは無理です、と平気で言ってみたい気もするが絶対言えねえ。
突拍子もなく予算にはまらない様な企画は、みんなプロなので、あまり提案しないものですが、出てきたら黙って首を横に振るしかない。欲しいものは自分の持っているお金より、いつも、チョッとだけ高いのが現実。

実際、できるかもしれないしできないかもしれない。やってみないとわからない事も多い。だからどうやったらできるかやり方を考える。昨日までできなかった事が今日できるようになってるかもしれない。新しい技術はないのか?あの人に頼むとできる。この会社とやればできる。そういうネタを一生懸命探して回るものです。プロデューサーとしての引き出しを一杯もっていないといけないし、増やさなきゃいけない。

その時の、手法やスタッフィングに関してまかされている事に説得力がないと、「こうやればできますよ」と、一生懸命考えてきた事でも簡単に却下されてしまう。「そんなんじゃだめだよ」って。できればいいってものじゃないからだ。うまくできないといけない。
見積もりを書いて値ごろ感があわないと「話になりませんな、この企画の提案やめましょう」見積もり方によっては名案を殺す事もある。恨みが残る。

とにかく、クリエイティブチームの要望と営業チームの要望を両方かなえて、しかも所属する会社に利益を出す。これがすごく難しい。

企画が決まると、直接表現を構築してくれるスタッフが参加してくれる事になる。演出家やカメラマン、ライトマン、美術という様な人たち。
演出家は、その企画にそって、表現をより面白くするのが仕事なので、またいろんなアイデアをお持ちになっているものだ。
優秀な演出家はお友達も優秀な人が多く、優秀なお友達のスタッフは売れっ子が多いのでそれなりに値段も高い。
そして優秀な人は、とにかくいいものを作らないといけないという気概の人たちで、何かを決める時も選択肢を多く欲しがるし、迷うので、表現に表れる以上の労力をかける。その姿には本当に頭が下がるのだけれど、その分、お金と時間がかかるのだ。絶対。

先日、あるクリエイティブの方から言われた事がある。
「2倍優秀なスタッフを連れてこないと、2倍時間がかかって2倍残念な結果になる」と。
そういうものだから、優秀なクリエイティブは優秀なスタッフを求める。絶対。

こんなもんでいいですよ。という適当な事でいい仕事にできる人はいないのである。それはよくわかる。

プロデューサーだって、せっかくお呼びがかかったのだから、少しでも面白いものを作って返したい。俺がやったんだと威張りたい。賞を取ったりしたい。優秀な演出家がやると言ってくれたのなら、その演出家のやりたい事をやらせてあげられないと、その人を選んだ意味がない。

その反面、仕事でやっている事に利益が出ないとそれは仕事ではない。プロデューサー会議で赤字出したプロデューサーがどれだけ会社から責められるか見せてやりたいぜ。と思う時もある。「こんなにやって赤字なら、お前、寝てた方が儲かるんじゃないの?仕事しないで寝ててくれない?頼むから」って感じである。ひどいでしょ?いっぱいもうけても給料はいっぱいは増えないが、損するとあっという間に給料が減る。不思議な現象が起きる。会社員とはそういうものだ。その程度で済むという考え方もあるが、針のむしろになる事は間違いない。長期的な展望で見守ってもらいたいけれど経営者は事情を聞きたがらない。

僕らプロデューサーは、やりたい事とやらなければならない事が相反している。だから板挟みにあうのだ。

そんなこんなで、若いプロデューサー達がすごく苦労しているのをよく見かけるようになったし、悩みも深くなってきたみたい。おっちゃんプロデューサーに相談も多くなってきました。「どうしたらいいでしょうか?」と。

とにかく、どうなったら最悪か?というイメージを持ってほしい。と思う。
いろいろ経験してきたので、しくじり先生の様な気分である。

みんなにいい顔して、誰かが怒りだすのを恐れて、言わなきゃいけない事を言えないで、へらへらして、仕切れず、問題を放置して悪化させ、何かが発覚して、結局誰かが怒ったり、敵対したり、誰かが悪者になったり、そんな事がおきないようにしなければならない。そうなったら中途半端なクオリティの作品が上がり、利益も出ず、誰かに恨まれた挙げ句、次をやらせてもらえない。あいつはダメだ、というレッテルを貼られてしまう。

まず、やらなければいけない事は、プロデューサーは、自分が問題を解決しないと誰も解決してくれないと認識する事。感情と事実は分けて考える事。心の中から漠然とした恐怖を追い出す事だ。そしてその仕事の中での自分の最優先事項を決めなければいけない。そして、各部署の立場の違う人たちの大事にしている事は何かを徹底的に知らなければいけない。
他の人の価値と、自分の大事にしなければいけないと思う事とのギャップを埋めるべく、ものすごい熱量で、どうなって行くのか予測して前倒しに対処しなければピンチは切り抜けられない。

本気で切羽詰まった人の言う事しか誰も聞いてくれないからだ。

演出家の書いたコンテの、見え方は同じで、コストのかからないやり方は本当に他にないのか考えなくてはいけないし、スタッフ全員に相談しなければならない。スタッフ打合せを組み直したり、パートごとに個別に会いに行って話をしたり、とにかく手間をかけないと不利な状況からは脱却できないでしょう。そして「本当に申し訳ない、頼みます」と相手をねぎらい続けなければいけないのです。一斉にメールを送りつけたからって、自分の思いは空を切るだけで伝わらないし無視される。

自分の一番大事な事を決めて、成り行きに任せたりせず、関わる相手の事を考えて、おろおろせずに、本気でなんとかしようと必死になる。そうやっていかないと、言いにくい事を、いいタイミングで、説得力を持って、はっきり言えるような人にはなれないので苦労する事になる。成り行きに任せて対処せず、自分の都合のいい事ばかり言っていると馬鹿だと思われるからだ。

結局、板挟みにあって、苦しんで、でも結果的に一本の仕事を終わらせ感謝されるためには、一流のクリエイターやディレクターが放出している熱量と同じ熱量以上で繊細に、冷静に、大胆に対処しないとどうにもならないという事だと思うのです。その根性のないプロデューサーは、ただの飲み友達の扱いにしかならないみたいである。

第105回 原風景

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先日、あるトークショーを見に行って、「原風景」の話題になりました。
70年代の原宿をテーマにしたトークショーで、その場合当時の「原宿」が原風景たりえるのか?という話し手の方達のやりとりだったのですが、その「原風景」という言葉がやけに気になって頭から離れなくなりました。

まず、この「原風景」という普段あまり気にしていなかったこの言葉が魅力的に聞こえた事。だけど言葉の意味が曖昧で、自分の中に明確な解釈が見つけ出せないという事。だったら自分の原風景ってどこなんだ?(どんな風景なんだろう?)ということを考え始めて、引っかかったんだと思うのです。

検索サイトで「原風景」と入力して調べてみると、いろんな意味合いの事が説明として出てくるけど、今ひとつ腑に落ちる表現はない。
とりあえず書いてある事を引用すると

  • 人の心の奥にある原初(一番最初)の風景。原体験から生じるさまざまなイメージのうち、風景の形をとっているもの。

  • 今はなくなってしまった、子供の頃の記憶のような風景。様変わりした現実の風景に対して、本来そうであっただろう、懐かしさを覚える風景。

  • 人それぞれの、感性の基礎となる景色。

  • 人がある程度の年齢に至ったときに最も古く印象に残っている風景やイメージ。

という様な事が書いてあるが、いまいちピンと来ないのである。そんなざっくりとした事ではなくて、もっとセンチメンタルでメランコリックな事だと思うからです。少しキュンとこないとだめだろう。

いろいろ考えているとき、矢沢永ちゃんが横浜の日産スタジアムのコンサートの途中で話し始めた話を思い出しました。横浜についての思い出の話でした。

―――
まだ、デビューする前の“何者でもない”時、横浜を歩いていたら小高い山があって、何も考えずに登って行ったら公園があって、ただのコンクリートの箱の様な展望台があった。まだ三月の寒い頃。その展望台に登ったら、下から風がウワッと吹き上がってきて、寒くて不安になった。「俺はこれからどうなって行くんだろう?」と、横浜が一望できる野毛山の公園で「俺は何者かになれるだろうか?」と心配になった。その時の気持ちと景色が忘れられない。その後も寂しくなったらそこに何度か行きました。次に来た時はポルシェで来ましたよ。あー、ここで、なんだか不安な気持ちになったんだよなあと思い出しました。
―――

という様な話だったと思う。
この話は「原風景」そのものなんじゃないかと思ったのです。
というか、ネットで調べたら出てくる様な解釈ではなく、こういうことであってほしいと思ったのですね。なぜかはわかりませんが。

この言葉については、それこそ本当に人それぞれの原風景があるのだと思います。辛い思いをしたことが原風景になる事もあるだろうし、楽しかった思い出がそのまま原風景の人もいるでしょう。映画のテーマみたいで答えはないんでしょう。定義付けすらできないのかもしれない。
ただ、自分の「原風景」を明確に持っておいた方がいいような気がするのは何故でしょう?

今月はめんどくさい事をテーマに選んじゃったなあ。難しいです。

僕の原風景はどんな風景なんだろう。
永ちゃんの話を例に考えてみると、僕にも思い浮かぶ光景はある。

浮かび上がってくる自分の原風景は、福岡の予備校で浪人していた頃、晴れた日の予備校の寮の屋上で洗濯していた風景なんじゃないかと思うのです。

当時、バスケで推薦入学が決まっていた大学を怪我や問題で棒にふり、急遽勉強し直して試験を受けてどこの大学にも入れず、打ち拉がれて予備校に入学して、はじめて親元を離れて暮らす事になりました。不満だらけでした。

予備校の寮というところは、負け犬の集まりで卑屈な奴が多く、飯はクソまずく、部屋は3畳くらいの狭い部屋で、壁や家具は全部グレー。風呂は一日おきで、門限が夜の8時。不満の溜まった思春期の男が150人。出るころは仲間もできていて楽しくなっていましたが、入った当初は刑務所に入ったらこんな気分なんだろうなあと思うくらいの悲惨な気分でした。

そんな場所だけど、広い屋上があり、そこに洗濯機置き場と物干があって、晴れた日は溜まった洗濯物を洗って干して、屋上で寝っ転がってタバコをふかしていると、その晴れた空に浄化されるようにチョッとだけ嫌な気分が晴れる、みたいな場所でした。

今考えると恵まれた不満なんだけど、バブルの東京で大学生になれなかった挫折とあせり、はじめて親元から離れて、常識として知らない事が多く、自分の無知さを突きつけられたり、また、生まれ育った場所ではない、知らない人たちと関係性を作り直さなければいけなかったり、殴り合いのケンカしたり。男からラブレターをもらったり。次の年の受験まではあっという間なんだけど気が遠くなるほど長い一年で、合格できるか?という不安とともに基本的には複雑で憂鬱な毎日でした。

その屋上で洗濯していて出会った3浪の医学部志望の不良の先輩が何ともたくましく、タバコをあげるかわりに勇気をもらったりした覚えがあります。

何年か前に福岡にロケでいったとき、夜中にホテルを抜け出して、その寮を見に行った事があります。場所はかわらないけど新しい建物に建て変わっていてがっかりして、一人で屋台で飲んで帰りました。
医学部志望の3浪だった先輩は、いまは東京で、有名なニュース番組のディレクター。いろんな不条理と戦い続けていて、今もたくましい。CM作っている奴は軟弱にみえるらしく、未だに叱られたりします。

という感じで、僕の原風景はやっぱり「福岡の予備校の寮の屋上で晴れた日に洗濯してるときの景色」です。自我を形成するのに一番大切な時期だったんでしょう。
昔は良かったと言いたい訳ではありません。確実に今の方があの頃よりいいから。自分が小便臭かったころがなんともみっともなく、情けなく、かわいいからでしょう。思い出すとうわっと恥ずかしいけど、同時に必ずあの晴れた日の屋上のイメージがついてきます。それは、あの頃より確実に良くなったはずの現在に生きづらさを感じて、それが何故だか説明がつかないときになんかの拍子に思い浮かぶということなんじゃないでしょうか?

それが「原風景」であってほしい。

あなたの「原風景」はどんな風景でしょうか?暇なときに考えておくのもまた面白いと思いますよ。

第106回 恨み言のメールが届いていた。

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「あの仕事、演出は○○さんになったそうですね。
ひどいですね。
私の企画で、競合勝ったのに。
社内で、別の演出を立てるつもりなら、
最初から、その人に企画やってもらってください。
私が企画をやる意味がありません。
○○さんの演出作品を増やすために、私は企画やってるわけではないので。
もう少し、企画演出部の人間の立場を考慮してください。」

ある朝、会社に来ているメールをチェックしていたら、こんなメールがCCで入っていてぞっとしました。
メールを書いた人は、社内の企画演出部の若い女の子のディレクター。送った先は、僕の仕事をやってくれている、これまた若いアシスタントプロデューサー。
ありゃあ、こりゃあ大変だなあ。いやな話になってる。

すかさず、アシスタントプロデューサーに電話して聞いてみました。
「何がどうなってこうなってるのよ?」

事の経緯はこうだった。

代理店から競合プレゼンの仕事をいただいた。
社内の若い女の子のディレクターを起用して企画を立てた。
運よく、その企画が通り、正式にプレゼンされることになった。
そしたら、また運よく、競合プレゼンに勝利して、その企画が採用され
実際にCMを作れる仕事になった。

ここまではいい話である。

代理店のクリエイティブと、実制作では演出家は誰に任すのか?という話になる。
アシスタントプロデューサーは当然、通った企画を考えたその若い女の子のディレクターが演出するのが一番だとお勧めする。
じゃあ、改めて彼女の作品集を見せてください。という話になる。

若いディレクターの作品集は当然作品数が少ないし、小さくてせこい仕事が多い。
しかも、この場合、企画は技術的に複雑な要因の多い、撮影も編集も、労力のかかるテクニカルな企画になっていた。

作品集をみた代理店のクリエイティブは、そのテクニカルな表現に沿った作品が彼女の作品の中に無いから心配である、という意見。この人でできるのか?と。
そして必ず、ほかに候補はいないのか?
という流れになっていく。

アシスタントプロデューサーは、困ったなあと思いながらも、代理店クリエイティブの要望にこたえるべく、しかし、予算やスケジュールを考えて、社内でそれらしき仕事の経験のある、ほかのディレクターの作品集を持っていって見せることになる。
すると嫌な予感の通り、改めて持っていったディレクターに決定してしまった。

という経緯である。

こんなことになってほしくないのだが、たまにある典型的な嫌なディレクターの決定の様相である。

そこで、冒頭のメールが送られてくるのだけど、なんでここまでこじれちゃうのよ?と。

このアシスタントプロデューサーはとても大きなミスを犯していたのです。
このディレクター決定の経緯を、若い女の子のディレクターに報告して説明することをしていなかったのです。アシスタントプロデューサーは言いづらいことを言うのが苦手。どう伝えようか悩んでいるうちに時間がたっちゃうタイプ。いい奴なんだろうけど、タイミングを逸してしまうとめちゃくちゃ悪い奴になってしまう。

彼女は当然、自分で演出すると思っているところを、これまた、他の人から別の演出家に決定したことを聞いてしまう。そして激怒して冒頭のメールを送ってくることになる。

それに対して、アシスタントプロデューサーはこんなメールの返信をする。

「△△さま

お疲れさまです。
事後報告になってしまい、申し訳ないです。
僕の力及ばずということです。
もちろん△△さん押しで提案しました。
そこは信じてください。
△△さんの企画に何度も助けられてますし、
また、演出に繋げられるもの、
ご協力いただきたいと思っております。
引き続きよろしくお願いいたします。
なんだか女々しいメールですね。
精進します。よろしくお願いします。」

時すでに遅し。
すると、すかさず、ディレクターからの返事。

「ほんとに<申し訳ない>と思ってる人とは思えないタイミングですし、
言われるまで何も言わない態度も、ほんとに<申し訳ない>と思ってる人の態度とは思えません。

今後はどうぞ、他の人に頼んでください。
うちの会社には優秀なプランナーもディレクターもたくさんいるので。」

そうなるよねー。
もう完全にコミュニケーション不全。こうなっちゃうと取り返しがつきにくい。
どうにかすると一生関わってくれないかもしれないのです。

コマーシャルを作っていく中で、こういう失礼な話をよく見かける。
若いころ自分も似たようなことをうっかりやったことがあり、平謝りに謝った覚えもある。

人にものを頼んだら、それがどうなったかも最短時間で結果を報告するのは
義務であり礼儀である。
頼むときだけ必死になって頼んできて、その後はどうなったのか?なしのつぶて。
そういう奴は、ディレクターだけでなく、いろんなスタッフにもそういうことをする。

「最近の若い奴」は平気でそういうことをする。「最近の若くない奴」もやってるのかも
知れないけど。そういうことにはやっぱりちゃんと言って聞かせないといけない。
これを怒鳴りつけてパワハラといわれるなら、そんな世界は早晩終わる。
プロダクションのプロデューサーやプロダクションマネージャーは、そうやって
人に頼みごとをする場面がめちゃくちゃ多いので、本当に気をつけなくてはいけない。

やったほうは、ついうっかり程度の気持ちなんだろうけれど、やられたほうはめちゃめちゃ覚えているものだ。
結果をじっと待っていた分、すごく腹が立つし、こいつの仕事はもうしない。、ということになりかねない。ということは、自分の武器を川に捨てながら歩いているようなもんだ。
気がついたら、だれも助けてくれない。
失礼な丸腰野郎になっているかもしれないからだ。そんな奴には仕事は無い。

それが、相手が若いスタッフだった場合、もっと繊細に気を使うべきだと思う。
予算も時間も縮小されていく昨今は、経験の少ない人にトライさせてやろうという気運は今やもう無い。失敗している余裕が無いからだ。
そういうチャンスを失ってしまうと若い奴らは一向に芽が出ない。
企画が通ったりしたディレクターは、演出できる!と思ってすごい期待をしているものだ。
その気持ちを大切にしてあげることをもっと考えたほうがいいと思った。

経験の多いスタッフで周りを固めてやるとか、発注主に安心材料を提供するようなアイデアで、なんとか若いスタッフにもチャンスをあげたい。
自分が引っ張りあげてもらったときの気持ちを次の世代に伝えなきゃいけないからだ。
違う内容の仕事のときのスタッフィングはそれはそれであるのだから。

そういうことを僕のアシスタントだったら考えて欲しかったのが事実である。

第107回 知らない事ばかりで

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今年47歳になったのだけど、
なんかいろんな事をちゃんと知らないし、ちゃんと考えないで生きてきたなあ
というような感覚が増幅してきました。感覚というか事実。
スニーカーの歴史とか無駄な雑学とか馬鹿話はいっぱい知ってるんだけど、
大事な事の根本的なところをほとんどわかっていない。

特に生活がインターネットに征服されてからは、ググればわかるだろうと思うようになっていたし、
「これからは検索ワードのセンスですよ!」とか言ってみたりしていたのです。

なんとなく日々の生活に追われて知的好奇心も少なくなっていたような気もします。
本を買う量も読む量も格段に減りました。

学校の授業で習った事は沢山あるんだろうけど、
何も知らない若い頃はいろんな話を聞いても意味不明で理解できなかった事の方が多いだろうし、
そもそも先生たちもちゃんと解ってなかったんじゃないか?と。
内容や意味を伴わない言葉だけを暗記させて、クイズをやっているだけですからね。

何のために生きるか?的な事は、考えてはヤメ、考えてはヤメ、してきてるし、
真剣に自分と向き合うと暗くなっちゃうのが怖いので、
目をそらしてきたのかもしれません。
それでいいのだ、という考え方もあるし、多分答えは無い。

なんでこんな事言い出したのかというと、
最近、世界に起きている気分の悪い事柄は、近代史の歴史を顧みると、
実は過去に何回も同じ失敗が繰り返されていて、
またやってんのか?というような、あほな繰り返しのような気がしたから。
もう一回、ちゃんといろんな事のルーツと生い立ちを洗い直して(発言するかしないかは別として)、
自分なりに解釈して知っておくべきではないか?
と思ったのです。世界の歴史は何が悪かったのか?を。

そんなこんなで、本を読む事にしました。
宗教、哲学、啓蒙思想、経済学、人が考えついた英知みたいなもんを
できるだけ簡単に解説した本を探して、時間があれば読みふけっているのです。

これがまた、びっくりしますよ。知らない事が多くて。
名前だけ知ってて、何を言わんとしているかなんてほとんど知らない。
そしてそれが理解できる事はめちゃくちゃ面白い。

パリでテロが起きました。
みんなでパリを憂い、テロリストに腹を立て、ひでえひでえと騒いでいるけど、
何でそうなったのかはあまり話題にならないし、
裏で何が起きているかは伝わってこない。
例え、理由を聞いても違和感があるだけで感覚的にわからない事が多いのだと思う。
宗教からくる物の考え方の違いからなんじゃないか。

ものすごく平たい言い方をすると、世界三大宗教の成り立ちは根本的に違うところがあります。
僕の読んだ本では、森林の宗教と砂漠の宗教という分け方をしていました。

仏教は釈迦が菩提樹の下に座り、21日間、人間の苦悩について瞑想して悟りを開いたとされています。
湿潤な気候の中で、生きるか、死ぬかを突きつけられている訳ではない宗教。

それと比べて、キリスト教の元になったユダヤ教とイスラム教は砂漠の宗教です。
砂漠で生きていく事はめちゃくちゃ大変で、ちょっとした迷いが死に直結するんでしょう。
生か死か、二者択一。その判断ができる強力なリーダーが必要な宗教ですね。

つまり、砂漠で人間の苦悩について飲まず食わずで瞑想なんかしてたらすぐにひからびちゃう。

いろんな事に思いを馳せる余裕のある場所で生まれた、多神教でありえる宗教と、
砂漠故に、絶対的な一神教で二分法的な考え方をしないと生きていけない人たちの宗教は
根本的に違うんじゃないか?という事です。
この違いが、いま起こっている国際問題や民族問題の奥の奥にあるんじゃないか。と。

事態はもっと複雑で時間がかかっていますが、大もとにはこんなことがあるんじゃないか?
平たく言えば、日本人の僕としては、「テロには屈しない」的な、
仕返しの空爆の論法がいまいち腑に落ちなくて気持ち悪いんじゃないかと思う訳です。

まあ、本を読みながらそんなことを考えている訳です。中学2年生くらいのレベルで。

またある本を読んでたらこんな話も出てきました。

ブッタが修行に出て、行き先もわからず、飲まず食わずの苦行による衰弱で、道ばたに倒れてしまいます。
そこに、ある少女が通りかかって、持っていた一杯のミルクをブッタに飲ませちゃう。
するとブッタはそのミルクで、たちまち生気を取り戻し、
修行は苦行だけでなくその後の解放も必要なんだという事を知るらしいのです。
いい話だなあ。

で、その、ミルクを差し出した少女の名前が「スジャータ」という名前だそうです。
スジャータのミルクで蘇生したブッタはその後、菩提樹を見つけて悟りを開く。という話。

スジャータ。いいネーミングだな、と。
やられたぜ。

ほら、知らない事が多いでしょ?

すぐ雑談の方へ行っちゃうんですが、そう、もっと根本的な事、知るべきです。
今悩んでるような事は紀元前の人たちも悩んでいる。
すでに答えが出してあったりする。
読んでいるとけっこう気が楽になったりする。
そういう知識もいいんじゃないか?当たり前か?と思うのです。
この歳になってからだからこそ得られる知識は、物事の本質や根本を理解しようとできるからおもしろいとつくづく思う。


第109回 かっこつけないでかっこよくいれるか?

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気分の問題だと思う。あくまでも気分。
最近は「かっこつけるとかっこ悪い」という気分だと思う。

お洋服について言うと
今は極端にデザインされた服を来ている人はいない。
なぜかは知らないけど、ものすごく派手で高価そうな服もそんなに売っていない。

僕が20代始めの頃はバブル期真っ只中だったが、
DCブランドブームというのがあった。
デザイナーズ、キャラクターズブランドという意味だったと思う。
今思うとクソみたいな服が馬鹿みたいに高い値段で売られていて
信じられないけど、その服屋の店員は「ハウスマヌカン」とか呼ばれて偉かったのだ。ディスコでちやほやされて威張っていた。
そういうことを有り難がっていっぱい服を買った。

夏と冬のセールの時期には、出勤前の早朝からデパートが開店して
朝から長蛇の列だった。これも最近あまり見かけない。
男の子用のファッション雑誌もものすごい数が出版されていて
それもいっぱい売れていた様な気がする。

その後、少し生活水準が上がったのかインポートブランドブームがやってきた。
つまり、パリでコレクションをやるようなブランドの服が売れるようになった。
本物志向?目が肥えたんでしょうね。エスカレートしていった。

あの頃は、日本人全体が、まだ、物を充分に持っていなかったのと、
やっとお洋服にお金をかけられるくらいの経済的余裕が出てきた頃
だったんだなあと思う。
海外旅行にいくと、円高もあって、みんな、めちゃくちゃお洋服や靴などの買い物をしていた。
今の中国人の爆買いと全く同じ現象だったんだと思う。
彼らを笑えないのだ。ほんの少し前まで自分達がそうだった。
本当はそういう時期が一番楽しいんじゃないかとも思うのだけど。

人間の中身を判断する様な基準がほとんどなく、
いい学校に行き、大きい会社に就職するという事以外になくて、
そういうのは聞かないとわからないから
身なりで人の事を判断する様な風潮が極端に強かった。
ブランドのスーツを着て、金とステンレスのコンビの腕時計をしてると無条件で尊敬されたりしていた。仕事の内容は関係なかった。

ブランドという意味は、本来「信用の継続」という意味だと思うのだけれど
その外国人のなかで継続されている信用を、いきなり金持ちになった成金日本人が根こそぎ買っちゃう。みたいな時期があってフランス人に軽蔑されたりしていたのだ。集団ヒステリーに見えただろう。

あれは発展途上国の最後の段階の有様だったんだと思う。ほんの20年前の事だ。
脱皮寸前のセミ。何とも浅ましい時代だなあと、今になって思う。
僕も買ってた。コンビのロレックスが欲しかった。
人に一目置かれたかったら、服に金をかけてます。みたいな態度が必要で
ブランドの名前が大きくプリントされたような物を着て喜んでいたのだ。

今は違う。

景気が悪くなった事もあるんだろうけど、貧乏で服が買えない訳じゃない。
多分、洗練されたんだと思う。
いろんな事を知って、その中から自分の好きなスタイルを選び取る。ということが洗練の意味だけど、それが進むと簡素で普通になっていくんだなあ。
奇抜な事はしなくても良くなる。
インターネットのおかげで都会も田舎も情報の格差が無くなったし、どこにいても欲しい物は手に入る。
ファッション雑誌なんかも買わなくなったし、たまに見かけると高齢者向け。
いい物を着てたら数はいらないのと、安くてシンプルな服を売る店が増えたのもある。
お洋服以外にお金を使うところが、あの時代よりたくさんあるし、
趣味も細分化した。ヒステリックに流行する何かなんか、無い。

国民的スターやヒット曲が出なくなった事や、派手な色の平べったい、排気音のうるさいスーパーカーに乗っている人が羨ましくなくなったのと気分が似ている。今は、普通にしていても命の危険にさらされる不安は尽きず、他に考えないといけないことが沢山ある。

周りで仕事のできる人たちの中に、趣味でお洋服が好きな人以外は
お洒落に執着している人はあまりいない。

これも推測だけど、みんなで決めて何でも売れた時代の経営状況とは違い
独自の視点とアイディアと求心力がないと仕事ができる人にはなれない。
そういう人とそうじゃない人の差が開いていて、仕事のできる人は極端に忙しい。そして最前線にいる。
充実した仕事で忙しいと、健康でいる事や清潔にする事には意識があっても、お洒落に割く意識や興味や時間なんかあまり無いんじゃないかと思う。

そういう人がシンプルでかっこいいと、なんとなくみんなわかりはじめている。
外見だけかっこつけてる人は自分の仕事に自信の無い人に見えてしまうし
本質的な、自分の仕事や生き方で人気のある人は、自己満足を嫌うので、お洋服でほめられたいとは思わないのだろう。
お洒落であるほうがいいけどお洒落の定義が以前とは変わった事に気づく。

かっこつけないでかっこよくいられるか?

つまり、本当の金持ちならいざ知らず、人間としての魅力はごまかしが効かない。
服で他人との微差を強調してみせたところで底が浅い事がばれるだけだ。
人間の「華」とか「色気」は、靴や服には宿らないということだ。

第110回 かっこつけないでかっこよくいれるか? パート2

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先月、「かっこつけないでかっこよくいられるか?」というコラムを書きました。
第109回 かっこつけないでかっこよくいれるか?
お洋服の話に終始してしまったのですが、実はそれが言いたい事ではなかったのです。つまり、もっと精神的に書く事がいっぱいあったテーマなのに書き出しの外見の話だけでひと月分くらいの分量になっちゃったので一つのテーマのようにまとめてしまったのであります。だから今月は続編です。続編かなあ?ちょっとズレますが。

最近、若者たちと接しているとものすごい違和感を感じる事があります。
向上心とか功名心とか持っていますか?と思うのです。
給料が高い、とか、有名になれる、とかそういう欲望は薄く
いままで価値とされてきたステータスには興味を示さず
やる気が無いように感じる。そんなことでどうする?と心配になる。

実際、若者に指導していて、今までの文脈で話をしても暖簾に腕押し的な反応になる事が多くなってきました。
「金持ちになりたいだろう?」とか「有名になりたいだろう?」とかいう話よりも「世の中のためになるんだよ」というような話をしたときの方が食いつきがよかったりするのが驚きでもあります。
社会貢献はキーワードみたいです。

僕は、矢沢永吉の『成りあがり』(角川書店)という本にものすごく影響を受けて生きてきました。
金を稼げ。というシンプルなメッセージの本だったからです。
お金持ちになってポルシェに乗りたい。と本気で思っていたのです。
それが当たり前だと思っていたし、立身出世物語みたいな事に憧れていたし、そのために田舎からわざわざ東京にやってきたし、人間の欲はそこにあると思っていました。
今でも思っているし、人間的にも人より図々しくやって、得もしました。

最近の若者達と接していてそこが根本的に違うんだということがわかってきました。
何が幸せなのか?とか、どういう事に満足するか?とかが時代の変化とともに僕らの頃とは大きく違ってきているように感じられるのです。

旧文脈で考えると、「ゆとり世代」は馬鹿だ、とか、使えない、とかそういう言い方をされているけれど、彼らからすると、高度経済成長期の価値観で判断しようとする事自体がズレているんですね。

つまり、社会全体が停滞しているように見えながら、今の日本人の考え方や生き方は着々と変化していて、若い人たちは、自分の事は自分で考える、という様なスタンスを静かにとりはじめているんじゃないか?
ケンカはせず、ただ古い感覚の大人は無視しているんじゃないか?
新しい社会の価値観を作り始めているのは若者達なのです。きっと。

昔ながらの、組織や集団のために無理して力を発揮して、組織の奴隷になっている事も気付かずに、その中で俺は偉いとか偉くないとか、そういう無駄な競争をする様な考え方を嫌う価値観の中で生きているのではないか?

生まれた時から、物はなんでも足りていて、必死に働かなくても食べて行ける。そういう事が当たり前の中で、集団の価値観みたいなものを信じる必要も無く、何がうれしいのか?幸せなのかを自分の物差しで定義しようとしているのではないかと思うのです。

これは、「物質的余裕」から派生した新しい社会の流れなんじゃないだろうか?
とても進化した人間のあり方に向かおうとしているんじゃないか?と。

これらはあくまでも僕の仮説。人によりますし全部がそうじゃない。
それに、若者達が明確な方向性を見つけたとは思えないのです。

自分の価値観が正しいかどうか、根拠も正解も無いから自信が持てなくて、自分だけでそれを守ろうとして、他人ともある一定の距離を取ろうとしているようにも見える。SNSでの発言は一生懸命だったり、横柄だったり、攻撃的だったりするくせに、対面するとみんな押し黙っているのはそのせいですね。きっと。

ただひたすら、旧文脈人がオペレーションしてる国家や、いい加減で嘘つきな制度にはうんざりしているけれど、何をどうしたらいいかわからず困っているんだと思うのです。

僕たち高度経済成長期に育った大人の方から、時代の変化と若者達の気分を知りたい、という気持ちではやく若者達に接して行かないといい結果は生まないんじゃないか?
若者が感じている事を、自分たちも理解しながら頭を柔らかくして、どうやったらおじさん達も若者も、もっと良くなるのか考える時期が来ているのかもしれません。ヒントは若者と大人の対話にある。

僕たちだって、新人類と呼ばれ、上司に怒鳴りつけられたり、当時の大人たちに石を投げられていた感覚があった。そんな中にも、真剣に向き合ってくれたり価値観をぶつけてくれていた大人がいてたくさんのことを知ったと思う。社会人20年もやっていると、少しずつ当時の大人たちが言っていたことが分かってきた気がする。そうやって、時代は融合と反発を続けながら常に流れているのだなぁと。

そんな事を考えていると、旧文脈的にかっこつけてる大人は浅ましく見えるんだろうなあ。
あまり難しくもない事を、さも難しい言葉で話す奴とか、小さい場所で偉くなった事を笠に着て威張ってるやつとか、具体的なアイデアはないのに漠然とした要求ばかりする奴とか。未来の事じゃなく昔の話ばっかりの奴とか。意味も無くナルシストな奴とか。

若者は、旧文脈の大人でも、この人は本物、この人は偽物という分類をさっさとやっちゃうそうです。本物の大人から発せられた情報に対しては目を輝かせる。という記事を読んだ事があります。偽物は馬鹿にして無視するそうですが。

そういう事に注意しながら大人やってないと、若い奴らに無視されてしまうんだなあと、そういう奴らを率いて商売するんだからなあ、と恐怖する今日この頃です。

組織より個人の事を大切に思って生きる。という事は大賛成。そもそもすべてのベースは個なんだから。
そして、その個をベースにした向上心も功名心もちゃんとしっかり持っているんですよ。この人たちは。
ただ、それを表に出すのはダサいと思っているし、出して失敗するのを恐れている。
ちゃんと活躍の場を作ってあげて、どんと背中を押してやると想像以上にがんばったりする。

そんな奴らにどうやって求心力を発揮できる大人になれるだろうか?本物でいられるのか?複雑で難解なテーマがまた増えたと言う事ですね。中年には。

僕は変わんないけどね、どうやったって。

第111回 仕事に修行や下積みは必要か?

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去年暮れ頃のことですが、ホリエモンさんが、下積みや修行を重んじる考え方は間違っているという主旨のコメントをして話題になっていましたね。「今時、イケてる寿司屋はそんな悠長な修行しねーよ。センスの方が大事」

事の発端は、「開店からわずか11ヶ月…素人だらけの寿司屋がミシュランに選ばれた理由」という記事。 大阪にある寿司屋「鮨 千陽」の料理人は、鮨を握った経験が1年未満ながら「ミシュランガイド京都・大阪2016」に掲載されたという。この事実を例に出し、長期間の下積みや修行は必ずしも必要ないと持論を展開したホリエモン。寿司屋に限らず、下積みを過度に重んじる「下積み原理主義者」を「大事なものが欠けているのはお前らの 脳だと思うよ」と徹底批判した。

と書いてあった。

寿司屋の話はわからないけれど、CMプロデューサーに当てはめるとどうなんだろう?と思ったから興味がわいたのだろう。

自分が実際どうだったか考えると、プロデューサーになる前に、8年間プロダクションマネージャーという職種を経験した。その後1年間、アメリカのコーディネーター会社に出向して、アメリカでのロケのやり方を学んだ。で、帰ってきてプロデューサーになったのだけど、その9年間がCMプロデューサーになるための大事な修行の時期だったと思うのです。

以前のコラム、プロダクションマネージャー

第21回 プロダクションマネージャー

CMプロデューサーに限らず、自分の技術にお金を払ってくれるお客さんがいて、それを継続させる事ができて、生活していけるだけの利益があり、(会社員では実感が薄いけど)その職業で稼ぎました、という税務署へ所得の申告をして、税金を納めてはじめて職業というのは成立するもの。

そう考えて行くと、僕にはプロダクションマネージャーという修行の時期が必要だったと思う。CMの制作会社に入社して、何が何だかさっぱりわからないところからスタートした。とりあえず、どんな職業なのかは勉強して入ったつもりだったのだが、なんとなく違っていた。先輩達は仕事の仕方がそれぞれ違って、何が何だかさっぱりわからないのでセンスもへったくれもなかったのだ。

そういう意味では鮨を握るという仕事の方が目標がはっきりしている。

いろんな事があるけれど、CMプロデューサーにとって一番大切な事は、この人に頼んでるんだから、何か問題がおきても最終的には、自分の望むレベルでなんとかしてくれる、という発注主との信頼関係である。

それは、うまくCMが作れるということももちろんあるが、本当は、事故が起きてもちゃんと対応してくれる、という事の方が大きい。
一つの撮影について、どんな事故が起きる可能性があるのか?ということを予測するのは容易ではない。それは経験からくる想像力のなせる技だからだ。なんか面白いCMを無責任に一本だけ作る、ということであれば、センスのある学生さんなら僕らより技量のある人はいる。

CMプロデューサーのやっている事は、今は特にディフェンシブである。
現場で起きる事故への準備と対応はもちろん、不確定要素であるロケ時の天気への対応、コンプライアンス違反へ対する対応、利益を確保するための効率化への対応など予想するのが難しい出来事に、その場で瞬時に正しく対応する事が求められているからだ。それでいて面白い物を作るための判断をしなければいけない。

責任者として現場にいる限り、起こりえるクソ面白くない事への対応こそが責任を果たすということであるならば、起きた不測の事態にビビらず冷静に対処できるのは、その事を予測していて準備している人だけなのである。
そこには、実務を担当して準備するプロダクションマネージャーの時の経験と、予想、判断、実行の指示を出すプロデューサーとしての経験がやる気とともにいいバランスで自分の中に存在してはじめて、継続して仕事を受注できる状況になれるんだと思う。

加えて営業という観点からは、人によって大事にしている事は違うから、発注主の要求はそれぞれ違う。なにか説明するにしても話し方一つで良くなったり悪くなったりする。肉が好きな人もいれば魚しか食べない人もいる。そういう理屈の通らない好き嫌いみたいなことにも臨機応変に対処して行く術が必要になってくる。

そう考えて行くと、ホリエモンさんが必要ではないと言った修行や下積みが、最初から、しなくても平気で仕事ができるならば、そんなにいい事はないが、(どこかにいるかもしれないけど)そういう人はまずいないと言った方が正解だろう。

この仕事に限っては、一人前になるまでに始めてから10年かかる。と思っている。CM一本作るのに、制作費は郊外のマンションを一部屋買えるくらいの金額が最低でも動くものだ。自分でマンションを買うときに、実務経験が5年の不動産業者の若者と組むのは怖い。だから10年。10年、その業界を逃げ出さなかった奴しか信用できない。

ただ、下積みや修行を長年やってるからといって、一人前になれるかどうかは不明である。「コツコツ下積みをすることが美徳」的な考え方は実は自分の中にも無い。大事な事は「どんな努力を自分に課すか?」という事だと思う。自分に何が足りていて何が足りていないのか、自分の弱いところを知ってその克服には時間をかける。自分の強いところはどんどんのばす。そして、いつまでにどうなりたいかの時間と実像を具体的に目標として決めて、それに向かって努力をする。「自分をどう販売するか?」という作戦を考える時間が修行で下積みならば意味はある。

他人から言われた事をカリキュラムのように時間をかけて繰り返していれば一人前になれると思って思考停止で実務をこなすだけなら、そんな修行は辛いだけだし意味は無い。そんな事は誰でもわかっている様な気がするけど、案外わからない人が多いんだろう。それとこれを分けて考えなきゃいけないということを「センス」という言葉でホリエモンさんは言いたいんだと思うのであります。

第112回 息苦しい世の中になってきました

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なんかね、息苦しいですよね。
ずっと不安でイライラする感じが消えません。
なんでだろう?とまじめに考えています。

コマーシャル映像を作っていてまず感じるのは
予算の心配、利益の心配をしないで作れるコマーシャルは
仕事の大小にかかわらずほとんど無くなってしまいました。

それを端的に表すのは、制作会社でのプロデューサーの評価軸が
売り上げの額から利益額に変わってしまった事です。

つまり、昔は、CMを作って利益が出るのは当たり前だったので
売り上げが多ければ多いほど偉いP。とされていました。
最近は、売り上げが多くても利益が薄いか、
もしくは赤字になるという切実な仕事も笑えないほど増えてきたので、
本当に儲かったかどうか、売り上げの額の大きさでのごまかしが効かないのです。
変わらないのは、なぜか毎年、成長戦略を問われる所ですが。

とにかく世の中に金がない。余裕がないからイライラするのか?
日本の経済の問題を考えると、世界中で起きている事から
自分たちではどうしようもない世界経済の潮流と、日本国内で独自に抱えた、
わかってたけど何もしなかったから悪化した問題があると思うのです。

世界中では、グローバル化とIT化で国際分業化が進み、いろんな、いままでの付加価値が意味をなくしつつあるそうです。たとえば、大量生産品のコスト、事務コスト、電子機器や輸送コスト、エネルギー源の多様化でエネルギーコストも安値安定の時代だそうです。
それに加えて、中国経済の減速、ブラジルやロシア、トルコなどの新興国経済もスローダウンしている。全体的に縮小傾向にある。

日本国内では、人口減による国内市場の縮小とそれを見越した投資の不安。資金不足。少子高齢化、つまり、じじばばが多くなっちゃって人口が減るのにプラス成長する訳が無い。とかなんとか、他にも調べていると理解できない難しい内容もいっぱいある。

改革か衰退か?改革しないと日本は先進国から脱落してしまうぞ。という選択をせまられ追い立てられている様な気がするんだけど、本当に改革は正しいのか?とも思うのです。

世界が「縮小プロセス」に入っちゃった原因は「無限に変化し続ける社会」というイメージが終わりに近づいているからだと指摘する人もいます。
ある時点から、変化のスピードが早すぎて、生身の人間の許容量を超えてしまったと。このままでは生身の人間はこわれちゃうぞ。

例えば、今の株式の取引は、人間ではなくコンピューターのアルゴリズムがやっています。1000分の一秒単位で取引される株式市場には生身の人間の入り込む余地はありません。自動操縦で利益を得ているこれまた人間は、天文学的な数字のお金を稼ぎながらや、もう十分だからやめちゃおうとは思わない。生身じゃないから限度ってものがない。そのスピードと欲につられて経済は動く。それを追いかける生身の人間は身体も心もついて行けなくなっているそうです。

そういうことに人間は疲れちゃったんじゃないか?と思うのです。ちょっとやりすぎちゃったなあ。ちょっと立ち止まって休憩しようぜ。と。

比較的若者の方が冷静でブレーキを踏もうとしていて、それを敏感に感じられないじじい達の方が変化を急ぐことをやめられない、という変な風潮もあるみたい。昔の右肩上がりの価値観が忘れられないというか、変化にシフトできないほど柔軟性がないのか。

他国からの圧力もあるのでしょうが、最近の日本で「法改正を急げ!」とヒステリックに言っているのはじじいの政治家ばかりで、SEALDsのデモの言い分は「憲法を護れ。立憲政治を守れ」
つまり若者の言い分は「納得いかねえよ。もう少しこのままでいいじゃないですか?」と言う事ですね。
変化を求めるのはいつも若者だった時代からすると、奇妙な光景でもある。

※SEALDs(シールズ)は、日本の学生団体で、Students Emergency Action for Liberal Democracy – s(自由と民主主義のための学生緊急行動)の略。メンバーは、10代から20代前半の若い世代。

それに加えて、これまでは秘密にされていて、みる事のできなかった世の中の理不尽さがネットのおかげで丸見えになってきた事もある。アルゴリズムやインサイダーでもうけた金をタックスヘイブンに持ち込み課税逃れをする金持ち。粉飾決算。うるさく言う割には効力の無いコンプライアンス。原子力発電所の事故の処理や嘘、再稼働。長年蓄積した恨みの連鎖のテロ。中国からやってくる大気汚染。それらは経済優先の考え方からきた犠牲で、その犠牲は水や空気等の社会的な共通の資本に毒をまぜる。だけど、グローバルスタンダードのバスに乗り遅れると置いて行かれちゃうぞ。という恐怖から生身の人間を大切にしませんよ。という図式。

なんでこうなのかわからないままイライラしてる人たちが、テレビの中、パソコンのモニターに出てくる、わざと煽る様なニュースのほんの些細な事に腹を立てる。インターネットを駆使して、闇から気に入らない個人を攻撃して、一発レッドカード社会を作っているんだろう。うさばらし。
会った事もない芸能人がどこで誰と不倫してようと、あんたの給料は減らないでしょ?と思うんだけど、キーってみんなで攻撃しますよね。無抵抗な相手をいじめて、思うほどうまくいかない自分の憂さを晴らす。テレビの画面は無菌状態でとっても清潔だけど、なんとなく面白くもなくなる。なんか気に触ればCMもすぐオンエア中止。すぐばらされて政治家にもなれません。知り合いじゃないならほっといてやれよ。本人は苦しんでるさ十分。と思う。

大きい事にも小さい事にも「ちょっとまってくれ、少し休憩して、今は正しいのかどうなのか一回議論しょうよ」と「変化させた方がいい事と、変化しない方がいい事があるんじゃないの?」いうのが正しい気分なんじゃないか?

本当はバブルがはじけたときに、「さて、これから僕たちどうしましょう?」という議論が必要だった様な気がするんですけどね。手遅れか。

今話題の、世界一貧しい大統領とよばれたムヒカ前ウルグアイ大統領が言ってる事はそういう事で心にしみちゃうんですね。
「わたしたちは大きな矛盾をはらむ時代に生きている。これほど矛盾を抱えた時代は、人類にはなかったのではないか。現在、我々は多くの富を抱え、科学も発展し技術も発展している時代に生きている。こういう時代に大切なのは、私たちは今、幸せに生きているか考えることだ。」と。

この大きな矛盾と小さい憂さ晴らしを重ねる小汚い風潮に対して無力な自分にイライラするんですね。
金がないからイライラするというだけではなさそうです。
どうしましょ。
グローバル経済が終わるという事を前提に、大きな矛盾に対して自分のルールで立ち向かって、自分の精神の健康を守るしかないんでしょうね。
もう何をしたらいいのか、何が幸せかもわからなくなっているかもしれないから、ある意味、無神経にアナーキーに自分の哲学をもっていないと心が病むのをとめられないのか?と思うのです。

第113回 公園にて

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企画の内容が公園での話だったので、公園のロケ地を探していました。

東京近郊の結構大きい町の結構大きい児童公園でカメラのアングルを決めていたのですが、そういう時はスタッフの出番で、ロケハンに帯同したプロデューサーなんかはやることがありません。いや、本当はあるんですが、僕みたいなベテランの面倒臭いプロデューサーがそういう時に元気に仕事をし始めるとみんながやりづらいので、少し離れたところでぶらぶらしていたのです。

公園内を一周したり、ブランコに座ってみたり、公園を出たり入ったりしていたら公園の入り口付近に「禁止事項」という看板が目に入りました。
パッと見て異様な看板だったので詳しく読んでみました。ちゃんとデザインされたピクトグラムがあって、それに赤い斜線が引いてある。そういうイラストがいっぱいあって、その真ん中に赤い文字で大きく「禁止事項」と書いてある。

内容を書き出すと

○ 喫煙
○ 火器使用
○ 危険物持ち込み
○ 撮影
○ 物品搬入
○ ペット持ち込み
○ 宿泊
○ 飲食

こんな感じ。ふむふむ、ペット持ち込み禁止なのか。糞を片付けない人とかいるからなあ。撮影もダメみたいだけど許可下りるんだろうか?とか、とか思いながら残りの半分を見てびっくりしました。残りの半分は

○ 自転車乗り入れ
○ ボール遊び
○ 大声
○ スポーツ
○ 遊戯
○ ラジオ体操

と書いてある。「遊戯?」
公園で子供達が遊戯ができなかったら何をするんだろう?
ボール遊びはどこでやればいいんだろう?キャッチボールとかできないよなあ。
楽しく一生懸命遊ぶ子供って興奮して大声出すもんじゃないのか?

こんなこと決める奴はものすごい頭が悪いんだろうな。
と思って一番下を見ると「ルールを正しく守りましょう」と書いてある。
誰が決めたルールなのか?使う側と話し合ってできたルールだとは思えない。
ネットで調べると今や日本国中そうなっているみたい。

マナーの悪いやつら。なんかちょっとしたことにクレームつけるやつら。子供がうるさいとか。車にボールが当たったとか。遊具で子供が怪我したから責任取れ、とか。そういうバカが多いから、役所の管理責任者もうんざりしているのだろう。裁判沙汰とかもあるのだろう。

そういうリスクを避けたいがために禁止事項を増やしておいた方が無難だ、と思うのもわからなくはない。わからなくはないけど、「トラブルの原因はすべて無し」という対応が「俺は何もしたくない」と同義だと思う。考慮しているのは子供達の安全や健康ではなくて、文句言ってくるクレーマーに対してだけだからです。

この話だけじゃなくてもそういうことが多すぎる。そのおかげで子供の貴重な体験も、思い出も作らせないでいるんじゃなかろうか?と。

この禁止事項を見ていると、お父さんとキャッチボールをしたとか、自転車の練習をして自転車に乗れるようになったとか、そういう何気ない幸せな思い出は作れないということか。何をする場所か分からんな。禁止事項が多すぎて公園は遊ぶ場所ではなくなっていました。

と、子供もいないのに憤ったのは、なんというか、この社会の嫌な感じの一端を垣間見たからでしょう。この感じ何かに似てるなあと思って考えていたら、仕事の時にぶつかる薬事法とか局考査に似ているのです。コマーシャルを作る時にいつも引っかかる「あれ」。あれ言っちゃダメこれ言っちゃダメ。この表現もダメ。注意書きを入れろ。ついでに言うと放送基準もそうで、海外から来る面白くて美しいCMを日本の放送用に合わせて作り直したりするとよく引っかかる。日本の放送基準は画も音も、他の国と比べて格段に厳しい。規制の国。

こうやって「なんかあったらまずいので」という考え方で、あれやっちゃダメこれやっちゃダメと言われて育つ子供はつまんない大人になっちゃうだろうなあ。それが家庭だけの話なら各家庭の教育方針や事情ってもんがあるだろうから知らんけど、公園は遊び場なんだからこんな規制しちゃダメだろう?と思ったのです。それが楽しいかどうかちゃんと考えないと。

「なんかあったら」の原因はなんでも他人のせいにする他責体質にあるんだろう。どんくさい自分の子供が転んで怪我したら、何か他者のせいにする。「転ぶと痛いだろ?それがわかってよかったな」と子供に一言言えば済みそうなものだが人のせいにしないと気が済まない。そんな風潮が強いし嫌だなあ。

学校の授業を半分くらい道徳の時間にして、公園の禁止事項なんか無くせばいいんじゃないかと思う。公園の禁止事項を目の当たりにして、なんかそういう時期に来ているような気がしました。だってなんか変なんだもん。

第114回 人とうまく話す

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会社の制作の新人の女の子から質問されました。
「なんというか、うまく話せないんです。どうしたらいいでしょうか?」
返答に困ってしまった。

会社の歓送迎会の席で、黙ってるだけの新人の子に
「なんでずっと黙ってるの?なんか面白いこと言いなよ」
と半ばいじわるで言った事への返しがこの質問だったのです。

仕事をしていて思うのは、新人だけでなく大人になっても、打合せ中にずっと黙っている人がいる、ということ。
人が集まって意見を交換する場で、自分が一番下っ端だとしても、よくそんな長い時間黙っていられるものだと関心してしまうくらい黙っている人がいるのだ。

最近はノートパソコンを打合せ中に開いている人が多いのだが、それと睨めっこして、打合せなのに一度も口を開かない人もいる。
何しにきたんだろう?と思う。
そう思って覗き込むと、関係ない他の案件のメールに返答している奴もいる。
帰れよ、お前。
そう言うと「急ぎの案件だったので」とかお決まりの返事が返ってくる。
他の案件のメール見んなや。打合せに集中しろよ、こら!と。
なんか仕事やってる振りの、いい隠れ場所にパソコンが使われているんだなあ、と思う。
夜中に代官山の本屋さんで、一人でやりなさいと。

会社のパソコンのメールには毎日驚くほどのメールが入っている。
大体、チームの全員にccが付いていることが多いから、自分に直接伝えられた件でもないけど、一応知っといてね的なメールが多いのだ。そういうメールの差出人は、打合せで口を開かない奴の名前が多い。
そんなメールは文章も事務的で下手くそだから読む気もしない。
で、知らんぷりしてると「メールに書きましたけど」って言われるのだ。
だから何?伝えたつもりですか?メールに書いてccで送りつけただけでしょ?
確認もしないんだし伝わってませんよね、と意地悪な気分になる。

最近は驚くことに、会社に入ってくる若者たち、特に男に多くなってきたのは
「僕、童貞なんです」っていう奴ら。
女の子と付き合ったことがありません、と恥ずかしげもなく言うガキ。

数年前まではビックリしてたけど、最近は慣れちゃってウンザリしてきました。

物凄く極端な言い方をすると、男の子は若い時に、これから生きていく上での色んなことを女の人に教えてもらうものです。ある女の子を好きになって、振り向いてもらうのに作戦を練って、成功して関係を維持する。これは世間的なことを何も知らず、金もない若い頃の男には大変な苦労ですね。
そこには言葉と若さしか武器がないのでそれを駆使しないといい目にはあえません。
ご飯のこと、ファッションのこと、ものの言い方、音楽のこと、映画のこと、本のこと、やったらダメな行動、なんでか分からないけど言ったらダメな言葉とか。
なんで怒っちゃったのかわからなくて真剣に考えたり話し合ったり。
好きな女の子と真剣に向き合って得られる人間性の成長は、野郎ばっかりたむろしているときに比べて格段の違いがあります。

仕事も恋愛もそうなんだけど、うまくいかない時の事を前提にして、僕なんかがお客さんの前で発言なんか……とか、告白して振られたら傷つくなあ……とか怖がって行動を起こさなければ、結局何も起きないし、クソつまんねえ奴になる。それは怖くないのか?と思うのです。

会社の飲み会があったとして、偉い人や怖い人のそばに座るのが嫌で、端っこに気の合う奴らだけで集まっていつもと同じ話をしているケースも、せっかくのチャンスを逃していることになる。
というか、目上の人間と話したりするのは勇気や体力がいるし面倒くさいんだけど、そこにぶつかっていく労力を出し惜しんだら何も得られない、というのも恋愛と一緒。
積極的にぶつかっていく奴を横に見ながらそいつを「政治家だ」とか「上を目指す奴」とか
揶揄して自分のできないことを正当化したりしても意味は無いのです。ただの妬み。

そんな感じだからうまく話せないのです。

色んな経験をして、自分以外の他人が何を考えているか想像できるようになる。
それができないといつまで経ったって上手く会話するなんて無理です。
裏を返すと、上手く人と話せないという人は、そこが解らないから自信がない。
自信がないから緊張する。だから切り出す勇気を持てなくて話ができない。
そういうことだと思うのです。

怖いことに、この広告の仕事をしていてわかった残酷な事実は、喋らない人から消えていく。という事です。
どんなに真面目で、会社の書類をちゃんと期日を守って提出しても、打合せで黙ってなにも言えない人は矢面に立つ気がないと判断されます。
アイディアが無いと判断される。
面白くないと判断されると仕事は増えません。
あの人を呼ぶと打合せが盛り上がる、仕事が盛り上がる、と思われるから仕事に呼ばれるのです。
全部そうだとは言い切れませんが、余計な事を言いまくらない限り大体そんな感じだと
思うのです。

日本の学校の中に根強く残る、余計な事を言わなければ取り敢えず損はしない、という感覚、男女交際禁止的なバカの建前が、社会に出るとスゲー邪魔なのです。
コミュニケーション下手人間を沢山生んでいる。
学校の風潮を真に受けた、控えめが美徳だと思っている奴は可哀想ですね。
匿名でネットに他人の悪口書いてるくせに、面と向かっては話さない。

言わなきゃいけない事は直接ハッキリ言う。泣き事や言わなくてもいい事は言わない。
そこが大事なんだと早く気付けよ。終わってからメール書いてこないで、面と向かって言ってくれ。たのむ。

メールでのコミュニケーションの文化は、クソみたいな学校教育の暗い文化、つまり学校をオペレーションする側が面倒くさい事が起きないように、とにかく大人しくしとれ、という考え方と上手く結びついて大量に発生した「人と話す勇気を出し惜しむ様な奴ら」に重宝されてスタンダード化しようとしているけれど、大事な事は1対1で直接言うということだと思う。最悪でも1対1のメールは読みたくなりますし。

とういわけで、相変わらず極論ではありますが、Ccの文化を信用せず、ちゃんと恋愛をしていれば上手く話せるようになりますよ。仕事も上手くいくんじゃ無いかと思うのです。
1対1の関係性をちゃんとできない人とコミュニケーションをとるのは、なかなか難しいでしょ?
と、新人の子にいいたいのです。

第115回 遅刻が死ぬほど怖い

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仕事をしていて何が怖いかって、一番怖いのは「遅刻」です。
社外での打ち合わせも、社内の会議でも、撮影でも、何でもかんでも
決められた時間に遅れるということが、僕にはものすごく恐怖なのです。
だから、大体のスケジュールに対して20分から30分くらい早く集合場所に
ついていることが多いです。
時間ギリギリに登場することができないのです。間に合うか間に合わないか
移動中にやきもきしてる時のストレスも大変なものです。

なんでこうなのか?原因ははっきりしています。
高校の頃のバスケ部が精神的にも肉体的にもメチャクチャ厳しい部でした。

監督が外部の人で、当時の日大の1軍選手だった人で、軍隊みたいな指導。
当時は珍しかったパソコンで出力された練習メニューが
毎日違うメニューで張り出される。大体5分刻みになっているスケジュールが
ドンドン消化されていくんですが、簡単なシュートをミスしたりすると
ピっと笛が鳴り、練習の一番最初のメニューに戻る。一からやり直しになるのです。
「ノーミス」という練習方法でした。

それで練習が終わらなくなったりしたら、下級生のミスだと練習後に先輩からの
リンチまがいのお仕置きが待っていました。連帯責任で。

毎日4階建ての校舎の階段を走って上り下りする10往復、みたいなメニューがあり
全員で隊列をなして階段を上り下りするんだけど
毎日タイム計測があり、前日の記録より1秒でも上回らないとやり直し。

練習の途中で気分が悪くなっても、勝手にやめたり抜けたりすると「ピっ」
と笛がなって一からやり直しになり、チームに迷惑がかかるので
ガマンして、走りながらゲロを吐く。「きたねえなあ、てめえすっこんでろ」と監督に
怒鳴られて初めて抜けることができる。

ボールを触る練習にたどり着くまで大変な日々。
練習後に家に帰れないほど疲れている毎日。血糖値が足りなくて冷たくなっちゃう
チームメイトもいました。腹減り病と言われていました。
思い出すだけで気持ち悪い、緊張しっぱなしの毎日でした。

正月元旦から練習があり、休みは年に1日、クリスマスイブの日だけ。
実業団に入ったのか?と思いました。辞める体力すら残っていなかった。

当時の佐賀県下の高校の、野球もラグビーも陸上も含めたすべての部活動の中で
一番厳しいといわれていたのが僕の所属していたバスケ部だったのです。

他の部の部員がだれた練習をしていると「バスケ部に行かすぞ」と脅されたみたいです。
実際連れてこられた野球部員が立てなくなって動かなくなったこともありました。
刑務所のような部活でした。
勉強も佐賀県で一番大変という学校だったので、当時の佐賀県で一番大変な高校生
だったということになります。

そんな学校と部だからぜんぜんバスケが面白くなかったのです。
「先生、バスケがしたくないです。」ですよ。
あ、違う、そんな部だから時間にもメチャクチャ厳しい部でした。

出発時間が来ると、遅れた人はどんな理由があろうと待ってくれません。
容赦なく置いていかれるのです。
遅れてきた奴は、当然試合にも練習にも参加させてもらえず、制服を着たまま
ベンチの奥でずっと正座。存在は無視。終わってから着替えさせられてのかわいがり。

遠征に行くときでした。他県の高校と試合するためマイクロバスでの移動の途中、
パーキングエリアにトイレ休憩で立ち寄ったとき、「5分な」と言われてトイレに走り
トイレが混んでいて、駐車場に戻ったら7分経っていて、バスはもうありませんでした。
財布も荷物もなく、どこだかわからない遠い高速道路の途中で、帰り方もわからず
途方に暮れ、帰った後に起きるだろう惨劇を想像して恐怖が襲ってきました。
そのまま帰らず、近隣の村の娘と結婚して一生暮らそうかと本気で思いました。

その時に植え付けられた時間に対する恐怖は30年経った今でも忘れられません。

そんなんだから、最初に入った会社に提出した履歴書に自分の長所を書く欄があって
「遅刻だけは絶対にしません」と書いていたのは、当時徹底してその自信があったんでしょう。
女の子との待ち合わせにも遅れませんし、遊びに行くときもほぼ遅れません。

仕事を始めてから、やっぱり早く集合場所に着く癖が抜けず、早朝の集合の場合は
もう寝ることを諦めるときがあります。

そう言いながらも25年も仕事してると何回か遅れたことがあります。
寝坊です。徹夜の作業の後のロケとか、直前までお酒飲まされてて遅れたこともあります。
どんな理由があろうと、寝坊して起きたときのあの絶望感が凄いです。
心臓がバクバク鳴り始め、うろたえて何から手をつけていいかわからずオロオロします。
比較的うろたえたりしない性格なんですが、寝坊から遅刻への恐怖は本当にオロオロして
しまうのです。心的外傷。
致命的な結果になった遅刻も3度ほどあります。遅刻したおかげでクビになった仕事のことは
一生忘れないでしょう。立ち直るのに時間がかかりました。

そんなこんなで、結構早く現地に着きます。初めて行く場所なんてもう大変。
一時間くらい前についてその場所の周りをロケハンしたりします。
でも恥ずかしいから、集合時間ギリまでどこかに隠れています。5分くらい前になると
さも今ついたような顔して現れることにしています。「間に合ったー」とか言って。

そういう性分だから、実は他人の遅刻にも厳しいです。
お客さんの遅刻は管轄外なのですが、自分の部下が遅刻してきたら殺意を覚えます。
むかしは実際にボコボコにしていました。今はそれやると問題なのでできなくなりましたが
ハラワタは煮えくり返っています。

先日、新人が遅く会社に現れて、半分心配しながら「どうした?調子悪いのか?」
と嫌味で聞いたら、「お腹が痛くて動けなかったんです」と言ったので
本気で心配して「じゃあ、いますぐ病院いってこい」と言うと「もう大丈夫です」と明るく
言いやがったので、自分をおさえるのに一苦労でした。やってしまえと心が言っていたからです。
そんな言い訳が通用すると思ってるのか?バカか?舐められたのか?と。

遅刻する制作部ほど危ないものはありません。寝坊で納品が遅れ、6千万円の
仕事を失った制作部の人を隣で見たこともある。こえー、と。
だから部下には絶対に遅刻はしないでほしい。制作部は最悪、仮払いの現金の入った封筒持ってそこに時間通り立っててくれたら最低限の仕事はこなしていることになるんです。

新入社員の面接でも、「ちょっと遅れました」と言う人は、普通に面接するけど
シートにはバツ書いてそれ以上何も書き込みません。どんな理由でもダメです。
電車がなんとか、車がどうした、行く場所間違えただの。一時間前に来たらいいじゃないか。
僕の場合、いままでの遅刻はどんな理由でも許してもらえなかったからです。

どんなオーディションでも早く来て待っている人に縁を感じるものです。
自分はいつもそうありたいのです。バスケ部のせいです。


第116回 どうしましょう?

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仕事中に若手の社員だけでなく、仕事の出来ない奴がよく使う言葉にものすごくむかつく言葉がある。それは

「どうしましょう?」

という言葉です。この言葉はいかん。なにか仕事を頼んでこの言葉が返ってくると
一発でその人と仕事をすることが不安に変わる。だめだこいつ。
もの凄く難しい局面に立たされたとしても、自分は絶対言いたくない言葉でもある。

夕方から始まった打合せが夜遅くまで終わりそうにない日は、
参加してる人達がお腹がすいて辛くなるので、ある日、若手の社員に
「晩飯用意して」とお願いした。すかさず「どうしましょう?何がいいですか?」
と平然として聞いてきた。本人は、何が食べたいか気を使って聞いたつもりだろうが、
イラッときたので「てめえで考えろ」と小声で囁いた。

若手は会議室を出て行ってどこかの弁当屋さんに電話しているみたい。
トイレに行こうと思って会議室を出たところでその若手にまた呼び止められた。
「弁当、あと一時間くらいかかるみたいなんですけど、どうしましょう?」
殴ろうかと思ったが殴ると問題なので「知るか、自分で考えろ」と相手にしなかった。
困って他の先輩に相談していたみたいだけど。

「どうしましょう?」という言葉は、
「自分は考える気がありませんから、あんたに丸投げさせてもらいます」
と同義だ。そういうことがわかっていない奴が多いのだ。
気をまわしたふりをして考えることをすぐに放棄する。
簡単に使える便利な言葉で平気で使う癖が付いているけどビジネスには向かない言葉。
「どうしましょう?」は他人に発してはいけない言葉で、
思考の中で自分に問いかける時のみ有効としなければいけない。

弁当配達してもらうだけでこの有様なのだから、仕事の少し難しい局面ではもっとひどい。

どうせ答えなんかないんだから、任された問題について自分なりの解決策を示せよ。
仕事の相談っていうのは、その解決策を持ってきて、自分の経験不足で想像のつかないリスクが
他にも存在するんでしょうか?という事を経験の豊富な人に聞くことだ。

「どうしましょう?」は家族間の甘えてもいい関係性の中で、お母さんがみんなに
どうしても聞きたいことがある時にしか使っちゃいけないのだ。

会社に入ってきた若者に、「わからない事があったらなんでも聞いてください」と
アナウンスするバカがいるがこれもまた、「どうしましょう」現象の元凶でもある。
「わからない事があっても当然だけど、無闇に人に尋ねたりせず
とりあえず自分で考えろ。わかるまですごいスピードで考えろ」と言いたい。

以前勤めていた会社で、なんでも聞けと言われた関西から出てきたばかりの新人が
会社の中で、事もあろうに社長を捕まえて質問したことがあった。
「すみません、新橋駅へはどうやっていくんですか?」
聞いてたみんながズッコケた。会社の最寄りのJRの駅が新橋だった。
社長は優しく、関西から来た新人にそこにあったジャイアンツの帽子を渡し、
「この帽子を被って、道を歩いている人に、同じ質問をしたら、駅まで連れてってくれるよ。
東京の人はジャイアンツの帽子をかぶっている人には無条件で親切にしてくれるんだよ」
と言って去って行った。新人はその帽子を被って出て行った。やるなっ!社長。と思った。
その域に行けないんですよ。

という話はどうでもいいのだが。

自分が任されたことに対して、自分が矢面に立ってその事をやる。どの辺りまでたどり着けば
それは成功したことになるのか?どのレベルでやり遂げれば頼んだ人が喜んでくれるのか?
周りの人たちは喜んでくれるのか?
弁当一つ取るにしても、そういうことを最初に思いついて実行できるようにならないと
仕事にはならないのです。

やったことないからわかりません。習ってないから知りません。どうしたらいいかわからないのでどうすればいいか教えてください。そういうことを真っ先に平気で言えるような風潮が蔓延していてすごく気分が悪くなる。学校じゃねえんだよ。俺はGoogleじゃねえからよ。
自分で考えるという装置が付いていない人が多いんじゃないかとすら思う。

そういうことにブチ切れて怒鳴ったりしたらパワハラになるけど、そのアホさ加減に怒りが込み上げくるけどパワハラにならないように我慢して気分が悪くなるのは逆パワハラじゃないのか?ヨワハラ。

自分で考えて実行して、成功して評価される。次のミッションを与えられる。また考える。
なんだかうまくいかなくて失敗する。じゃあなんで失敗だったのか考える。次はどうするか
選択肢を増やす。また知らないことがやってくる。調べる、悩む、考える。実行する。
進化はその繰り返しのなかにしかないのに、いちいち人に聞いてたら成長が遅れちゃうじゃん。
熱いか冷たいか自分で触って自分で覚える。そうやってわからない事を一つずつなくして行った
人にしかいいことは無いような気がするのです。

どうしましょう?と聞かずに、こうしましょう!って言えよ。

第117回 なんちゃらハラスメント

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先月、何気なくこのコラムで使った「ヨワハラ」という言葉に反響が大きく、そう思ってる人が多いんだなあと驚いたのだけど、よく考えてみれば、よく会話をする人といえば年齢的に同世代は管理職が多く、そう感じているのは当たり前なんでしょうし、若者からは反論もあるでしょう。
で、「ヨワハラ」をちゃんと定義づけしようという話になって、ハラスメントのことを調べて行ったら、これまた面白いことがわかりました。
〇〇ハラスメントと定義づけされているものが30以上もあったからです。
とにかくハラスメントだらけ。

ハラスメントの定義は、
「いろいろな場面での『嫌がらせ、いじめ』を指す。その種類は様々だが、他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えることを指す。」
となっています。

ということは「ヨワハラ」も立派に定義づけできる、ということです。

ヨワハラ (弱っちい奴からのハラスメント)
社会的に未熟で経験も仕事のスキルもなく、根拠のない自信だけを支えに生きている若者に、日常的な業務上の失敗を繰り返され、もしくは期待している成果を出してもらえず、泣き言や不平ばかり相談され、上司が精神的な不安やストレスを受けている状態。さらに、様々なハラスメント議論を楯に取られ怒ることもできず、かといって、優しく言って聞かせたからといって理解されたり改善されたりする傾向もなく、コンプライアンス的な失敗、機密の流失や紛失などの事故を起こされたりする。精神的不安定な状況に陥ったことを上司や会社のせいにされ、最悪は退職されたりして、会社からは上司の管理責任を問われ、過度なストレスを感じてる状態。

ということになるんじゃないか?

そもそもハラスメントとは「いじめ」を定義づけして細分化したもので、人間の汚い部分を理屈くさく説明しているのだけど、そもそも人生は不平等で不条理なんだから、そういうことに対して定義づけを楯にとって第三者に訴え出たりする前に、自分でまず立ち向かったり、折り合いをつけたり、解決をすることで人間のスキルが上がっていくんじゃないかと思うのです。

なんか嫌なことがあったらすぐに、「それ、なんとかハラスメントです!」とか言って騒ぎ立てたり、相談窓口に電話してねえで、その試練を乗り越えるためにいろいろ考えて作戦を立てるべきじゃなかろうか?不条理と殴り合いするくらいの根性が備わってないと生きていけないような気がするんです。「助けてくれ」が多すぎる。

人の思惑や利害が交錯する社会では、弱かったら食い物にされてしまう。これは紛れもない事実。強く生きなきゃダメなんだけど、昨今のへなちょこ大量生産社会とその、人のことを思わないナチュラルにKYなへなちょこ同士が編み出したクソ意地汚く貧乏くさいいじめのテクニックとのバランスの悪さが、こう言う弱者救済措置の進化を求めたんでしょうか?
本当に弱って困っている人が助けられるならばその意味はあるのだけれど、中途半端にサボりたい奴の駆け込み寺的に使われると、どうしたもんでしょうか?ということになる。

一連のやり合いは無神経なバカとへなちょこの戦いにしか見えないのです。レベルが低い。
お前が言うな。と言われそうですが。ごめんなさい。

被害者面ばっかりしてないで、ハラスメントの細分化は、これだけ人間のいやな行動を研究しているわけだから、学校の道徳教育や家庭での教育にフィードバックさせて「こういうことをしてはいけません」って話にすればいいのに、なんか罪状にしたがっているだけにしか見えないのが悲しいですね。

そのうち、もっと細分化していき、返し技とかもできちゃってハラスメント同士のもの凄い戦いになっていきそうな気配です。武道として成立するかもしれない。

以下、ネット上で書いてある細分化された「ハラスメント」の種類を書いておきます。技の名前みたい。驚きますよ。

セクシュアル・ハラスメント
セクシュアル・ハラスメントとは、本人が意図する、しないにかかわらず、相手が不快に思い、相手が自身の尊厳を傷つけられたと感じるような性的発言・行動を指します。

セカンド・ハラスメント
セクシャルハラスメントの解決による被害の訴えを起因とする二次的被害のこと。閉鎖環境下で起こりやすく、問題解決が難しい。

ジェンダー・ハラスメント
性に関する固定観念や差別意識に基づく嫌がらせなどを指す。女性又は男性という理由のみで性格や能力の評価や決め付けを行うこと。「男性だから仕事は義務」・「女性だから家事育児は義務」といった考えからの性差別。ジェンダー・ハラスメントは広義のセクシュアル・ハラスメントとされる。

テクスチャル・ハラスメント
ジェンダー・ハラスメントの延長上にある女性作家、創作者に対する嫌がらせや不当な扱いのこと。女性というだけで偏見や中傷、評価が著しく低くされることを指す。

マタニティ・ハラスメント
妊娠や出産を控えた者又は経験者に対して行われる嫌がらせのこと。多くの場合仕事に関係し、職場において上位の者や同僚から退職や退職へと追いやるといった不当な扱いを受けること。嫌がらせが身体的外傷を与え流産の危機にさらす場合もあり、男女雇用機会均等法・労働基準法等の法律に違反するケースも多い。

エイジ・ハラスメント
年齢による偏見や嫌がらせを受けることの総称。多くの場合女性間の間で起きやすい。

エイジシルバ・ハラスメント
60歳以下の者が60歳以上の者に対して行なう身体的・肉体的嫌がらせの総称。近年多くなっているハラスメントの1つで背景には介護疲れによるストレス発散を目的とした嫌がらせ等がある。

家事・ハラスメント
主に家庭内で起こる専業主婦が働き手に対する言動的な嫌がらせの総称。例えば普段働いている夫が休日中に家事を行うのに対し、必要以上に嫁が完璧を求める等がある。家事をするのが当たり前であるという風潮がある一方で、片方の意思が強く働いているのが原因であることが多い。

モラル・ハラスメント
言葉や態度、身振りや文書などによって、働く人間の人格や尊厳を傷つけたり、肉体的、精神的に傷を負わせて、職場を辞めざるを得ない状況に追い込んだり、職場の雰囲気を悪くさせることです。

パワー・ハラスメント
同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為をいいます。

リストラ・ハラスメント
会社や職場においてリストラ候補の者に対する嫌がらせの総称。多くの場合自主退職に仕向けるよう同僚や上位の者がその者に対して不当な扱いをする。心的外傷を受けることもある。

エアー・ハラスメント
特定の者を不特定多数の前で意図的に陥れるために場の雰囲気を極端に悪くすること。精神的ダメージを与えるばかりか、評価を著しく下げることに繋がり名誉毀損になることもある。

終われ・ハラスメント
主に就職活動中の学生に対し企業側が行う嫌がらせ、また不利益をもたらす言動や行為。早期内定を決める条件として今後の就職活動を禁止、ほぼ強制的に選考企業の辞退等を強要するなどがある。中には内定後の合宿の強制参加などがある場合もある。企業と学生というパワーバランスが明確な環境下での一方的な支配と見ることができ、一種のパワハラでもある。近年非常に増えてきているハラスメントとしても有名。

パーソナル・ハラスメン
パーソナルな面において個人・集団問わず嫌がらせを行う行為。例えば容姿やクセ、生活スタイルや個人的に直接関係することにおいてからかったり必要以上に問いただしたり、いじめをしたりすること。

アルコール・ハラスメント
飲酒の強要、イッキ飲みの強要、意図的な酔いつぶし、酔ったうえでの迷惑な発言・行動を指す。

カラオケ・ハラスメント
本人の意志に反しカラオケのある場において歌うことを強要すること。意図的に歌わせるよう仕向けることや、上下関係の中で断れない状況での強要するのもこれに該当する。

テクノロジー・ハラスメント
専門分野(主にIT系)に長けた者が反対に知識のない者に対し不当に扱うことの総称。一般的には専門用語で話したり、意図的に回りくどく難しい内容で説明することを指す。IT系の専門用語が極端に難しく知れ渡っていない為IT系に関する被害が多いが、相手にとって分からない用語を意図的に並べて不快な思いをさせればこれに該当する。

エレクトリック・ハラスメント
インターネット上のサイバー暴力とは異なり、嫌がらせや拷問、意図的な危害を加える目的で電子機器を操作利用し、直接・間接問わず身体に自体的影響を与えることの総称。具体的には衛星を利用した追跡や盗聴撮、人体に有害な電波やそれに該当する何かを利用して危害を加えるなどがある。

アカデミック・ハラスメント
研究教育の場における権力を利用した嫌がらせ。嫌がらせを意図した場合はもちろん、上位にある者が意図せずに行った発言・行動も含まれる。

キャンパスハラスメント
各種ハラスメントのうち、キャンパスでの人間関係において学生に対し行われるハラスメント。アカデミックハラスメントに似ているが、教師や先輩等の上位の者に限らず勉学や研究環境を阻害することを指す。身近な者による被害が多い。

ドクター・ハラスメント
医師や看護師をはじめとする医療従事者の患者や患者家族に対する心ない発言や行動を指す。閉鎖的な空間なためパワー・ハラスメントに似た状況になりやすく、患者側が意見を出しにくい形に追い込み無力化させやすい。多くは心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症させる。

ペイシェント・ハラスメント
ドクター・ハラスメントの逆のパターン。主に患者側が医療従事者に対し、正当な医療行為を妨害するような行為をすることを指す。心無い患者が暴言を吐いたり又は暴力行為を行なうこともこれに該当する。また事実にない事を言いふらし権威を失墜させることもこれに当たる。

スメル・ハラスメント
キツい匂いの香水や場に相応しくない香り、異様な体臭などスメル(匂い)による周りに不快感を与えることの総称。好き嫌いが別れる匂いが主体なため知らず知らずに不快な思いを与えている場合がある。

スモーク・ハラスメント
一般的に空間を共有する場において自己の意志に反してタバコ等の煙を吸わなければいけない状況に追い込むこと。多くの場合喫煙者と非喫煙者間でトラブルになる。受動喫煙を避けられない為身体的なダメージを多く受け、生命活動を害する場合もある。また喫煙者の家庭内でも同様に該当する。

ソーシャルメディア・ハラスメント
インターネット上のSNSに関連した職場関係による嫌がらせの行為。パワハラの一種。上位の者が下位の者へSNS上で絡み、本人の意志に反する「友達申請」や「フォロー」といったSNS活動を強要すること。またその結果による職場での嫌がらせや不当な扱い。

ラブ・ハラスメント
恋愛や性・異性に関する話を不特定多数の前において公開したり、本人の意志に反しながらもしつこく迫る結果与える精神的ダメージの総称。求婚や性交を迫ったり、意図的に個人の価値観を尋ね罵倒したり馬鹿にすることもこれに該当する。

マリッジ・ハラスメント
未婚の者に対して行なう嫌がらせの総称。多くの場合本人の意志に反した結婚を迫る発言だったり、お見合い等の強要などが当たる。男性・女性に関係なくこれに該当する。

ゼクシャル・ハラスメント
主に家族間でのマリッジ・ハラスメントを指す。未婚の子供に対し親や兄弟が結婚を迫る発言をしたり、本人の意志に反するお見合い等の強要を行なうこと。ゼクシイを買ってきて結婚を強要するような感じ。

ブラッドタイプ・ハラスメント
ブラッドタイプ(血液型)といった不確定性要素に基づいたその者への不当な判断や言動、行動などの総称。科学的に肯定されていない血液型による人格判断のため受けた側にとっては不当極まりない。選択が不可能な生まれ持った遺伝的情報による否定は人種差別と変わらず、多くの国ではそれ自体がナンセンスであり立派な差別といった認識である。

ペット・ハラスメント
飼い主がペットに対する嫌がらせ。例えば食べ物を与えなかったり、到底許可できない劣悪な環境下にさらしたり、暴力行為を行ったりなどを指す。また飼い主の一方的な願望による衣服の着用、承認欲求のためだけに飼うこともこれに入る。

レイシャル・ハラスメント
人種的な差別に繋がる発言や嫌がらせ等を行なうことの総称。人種差別。多くの場合閉鎖的な環境での外国人に対する不当な扱いをしたり、ハーフの者に対し嫌がらせやハブり、いじめなどがこれに該当する。

レリジャス・ハラスメント
宗教団体やその関係者から受ける精神的・肉体的・経済的な苦痛を伴う嫌がらせのこと。本人の意志に反する大きな圧力による入信、信仰宗教内での上位に当たる者から人権を侵害するような不当な扱いまたは脅し、批判や言論の自由を阻害する行為、脱会や信仰の自由を阻むことを指す。

第118回 不安と憂鬱

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一緒にバスケをやっている若い人たちからは、「櫻木さん、不安なんて無いでしょう?いいなあ」的な事をよく言われます。
「そんなことないよ」って答えますが「無いですよ~」と返ってくる。
どんだけ能天気に見えているんだろうと不安になりますね。

何となく漠然とした印象ではありますがテレビも職場も友達も「不安」という言葉と「憂鬱」という言葉を
よく使うようになってきたなあと思います。

「不安」や「憂鬱」に関しては、長い時間めちゃくちゃ研究されていてこのキーワードで検索するだけでいろんな方の研究がネット上で現れます。
それらをじっくり読んでいってもなかなか今の自分の気分にフィットする様な事は書いてありません。
ネット上には「不安を解消する10の行動」みたいな種類のHPがたくさんあって、いろんな不安や憂鬱に対処する方法があるけれど、最後には「それでも不安なら心療内科にいきましょう」と書いてあって声を出して笑ってしまう。

そもそも、人生の話だからそんなに簡単に書いてしまえるような話ではないんだけど、ものすごく身近なところで考えるといろんなことがわかります。

哲学や心理学、映画や戯曲まで研究され尽くした永遠のテーマみたいな物でしょうが、自分なりに「不安と憂鬱」のことを考えていくとまず、「不安」と「憂鬱」は似ているようで決定的に違うことに気付いた。

その決定的な違いは「不安」は自分の未来にあり、「憂鬱」は自分だけの過去にあるという感じがします。

「不安だなあ」と感じることは当然のことながらまだ起きていないことがどうなってしまうのか?という怖さです。「憂鬱だなあ」と感じることはその「不安」が現実のものになって、自分の愚かさを露呈して、そのことを思い出したくもないけど頭から離れない。ということなんでしょう。

映像を作る仕事をしているので、仕事柄、新しい表現や驚くような技術を毎日探して暮らしていますが、ある時期からびっくりするような映像表現がなくなってしまいました。なんでだろう?感受性が鈍っちゃったのかなあ?と思っていました。でも、よくよく考えるとそうじゃない。

NYのビルに飛行機が突っ込んで爆発して、その後、ビルが崩れ落ちる映像。東北の地震の後の津波が街を押し流していく映像。熊本城の瓦や石垣が崩れ落ちる映像。現実に起きたこういうことのリアルな映像が自分の想像力を超えてあまりに凶悪なものだったので、人が娯楽で作るCGなんてへでもなくなっちゃったんだと思います。
特にハリウッドの映画などで、CGの津波がニューヨークを襲うとか、実はそういうものを経験したことのなかった人類からすると「不安」だったのでしょう。そして、起きてしまった現実の災害やテロ行為のリアルな映像と、その現実の被害の大きさとその記憶やなすすべのなさがまさに「憂鬱」だと思うのです。

最近は、現実に起きることが人間の想像を超えてひどくなってきました。地震、津波、台風、洪水、大寒波。『シンゴジラ』でも描かれていましたが、自然災害の前に人間があまりにも無力だということが本当にわかってしまった。ということが、大きい気分での憂鬱だし、それが次にいつ起きるのか?ということが大きい不安だと思うのです。危険な時代に入ってしまいました。

そういう、本当に死んじゃうかもしれないという大きい不安と憂鬱の中でのストレスが身近なところでいろんな形で発散されて人間がどんどん愚かになっているような気もします。それが今を包み込む閉塞感か?不安な時代の憂鬱な人間。

他に身近な不安もいっぱいある。
引退してからちゃんと年金をもらえるのか?とか、原子力発電は本当に無くなるのか?とかいろいろかんがえていくと辛くなってきちゃうので、自分ではどうしようもない不安については考えることをやめようと思っている。

物心ついてからこれまで不安がなくなった日は1日もない。一瞬忘れることはあっても不安というものは無くならないものだ。そのことを自覚するだけでも随分気が楽になる。不安のない人間なんてどこにもいないからだ。

自分がやってしまったことからくる憂鬱も増える一方で減ったりはしない。それが生きているということなんでしょう。自分を恥じながら生きる。憂鬱なことが増えるほど謙虚になれたりもするので、嫌な経験は大人になるために大事なものかもしれないし。

生きているということが不安と憂鬱だらけなら、自分で自分を殺しちゃった方が楽になると考える人も多い。その気持ちはわからなくもない。

そんな中で自分を救ってくれるのは、単純に「いいことがあったなあ」という思い出だけかもしれない。俺にはいいことがあった。だからこれからも、もっといいことがあるかもしれない。と思って、いいことがあるようにと頑張って生きるしか無いんじゃないか?

漠然と頑張っていたらいいことがあった。じゃあダメで、こういう風にいいことが起きるように頑張ってみる。という方が正しいのかもしれない。何が不安なのか?何が起きたら嫌なのか、ちゃんとした自分の不安を自分の憂鬱から導き出して認識している人にはいいことがあると思う。

そうじゃないと不安に魂を食われて憂鬱な人生を送ることになるんじゃないだろうか。

第119回 表彰してあげるということ

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冬のハワイに行くと、海に入るより楽しみなことがあるのです。
ハワイ大学のバスケットボールの試合を観戦しに行くことです。
大学のバスケの公式戦といっても日本の大学の試合とは全然違うんです。

ハワイ大学のチームはNCAA全米体育協会のディビジョン1(トップリーグ)に所属する強豪チームで、多分、全日本より強いです。レインボーウォーリアーズというチーム。

円形のドーム型体育館も1万人くらいの収容キャパがあり、でかい。
重要な試合にはTV中継も入る。チアリーダーやブラスバンドの応援、マスコットキャラクターやハーフタイムのショー、大型のモニター掲示板など、プロさながらの演出で試合を盛り上げ、地元のファンも一気にヒートアップする。NBAにも負けてないくらい盛り上がるんですねー。

今年も11月の頭にハワイに行く機会があって開幕戦を見てきました。
会場の入り口から自分の席に向かう通路の結構な距離を歩いたのだけど、その通路にズラーっと人物の写真と名前と年代、競技の種類が示された額縁が並んでいました。ハワイ大学のスポーツで活躍した選手の額だそうです。

羨ましくなっちゃいました。

こんな立派な体育館に顔写真入りの額が飾られたらそれを支えに一生頑張れるよなあ。そんな気分になったのです。

アメリカには個人を表彰する文化があります。
アメリカは小学校の時から年がら年中、生徒を表彰するそうです。
いろんな賞があり、ちゃんとした立派な表彰状をもらえるらしい。
総合の成績優秀者から各教科の優秀者。皆勤賞。行儀や態度のいい賞。
目標を達成した賞、人助けした賞。僕っていいやつだよね賞なんかもある。
学校によって違うみたいだけど、ほとんどの学校で表彰を重視しているみたい。

生徒一人一人が必ず少なくとも年に1つか2つの賞をもらえるようになっているみたいですが、表彰式には親も呼んで、校長先生から賞状を貰う、ちゃんとしたものなので、子供がとても誇らしくしていると聞きました。

アメリカの友人が自分の子供のアワードを誇らしげにfacebookにアップしたりしてるのを見ると、親もまた認められたような気になるんだなあと。

日本人の感覚から言うと誰でももらえるんだから価値はない、となりそうですね。褒められたくてやってるんじゃねえ、みたいな。照れちゃって。

人間には「承認欲求」があるそうです。
誰かから認められたい、という社会生活をして行く上での欲求ですね。
難しいことを調べると色々細分化して考えられるそうですが、早い話が「よくやった」と大勢から褒めてもらいたい、という欲望。

アメリカはそういうことがとても上手です。
ちゃんと一人一人に光をあてる、個人を讃える、という考え方がヒーロー主義の国でかっこいいと思うのです。

どうしようもなく辛い現実にぶち当たってもう死にたいと思った時、死なないでいいよと助けてくれるのはキラキラした過去の思い出だけだと思うのです。いいことがあった。いい気分になったことがある。それだけが、もっといいことがあるかもしれないという希望みたいなものになるんじゃないかと思うのです。「承認欲求」が満たされたことがある。これが大事なことだと思うのです。

日本にはそれが圧倒的に足りない。
表彰される人はいつも表彰されていて、表彰されたことのない人はいつも表彰される人を俺には関係ねえよ、という気分で見ていなければいけない。
表彰される人を讃えるという気持ちすら持ち合わせていないかもしれない。
一度でも表彰されたことがあると、自分が表彰されなくとも他人を讃えてやりたいという気持ちが芽生えるものだけど、そういう人の数が少ないのだろう。

たまに表彰されたとしてもチームだったり、さらには個人を表彰するのに罪悪感すらあるのは何故なのか?
表彰されない人が可哀想だと言って表彰自体をやめてしまったりする。運動会で走っても順位をつけたがらなくなった。病気か?そう言う嫉妬や妬みでひねくれた暗い国だ。それでも夢を持てと言われても子供も困るだろう。

アメリカの小学校で全員が表彰されるとしても、与える側は、全員のいいところを一人一人、1年中探していなければいけない。表彰する側も大変なのである。それでもその努力を惜しまないだけの価値が生徒一人一人のためにあると思っているから、表彰をやめようという考えは浮かばないのだと思う。

あの立派な体育館、ハワイ大学マノア校のアリーナの通路に顔写真を飾られたら、一生誇らしく生きていられるだろうし、悪いことなんかできないだろう。(たまに間違う人もいるかもしれないが)

広告業界にはコマーシャルフォトという雑誌がある。
今月の作品みたいなコーナーに、毎月のちょっといい出来のCMと老眼の人には見えないくらいの大きさでスタッフリストが載る。
僕がこの仕事について、初めてこのスタッフリストに名前が載っているのを見たときは、喜びを隠して同じ本を3冊買って帰り、家に帰って飛び上がって喜んで何度も眺め、一冊を付き合っていた彼女に胸を張って渡し、一冊を田舎の親に送った。
「ああ、これでちゃんと生きていた証拠が残せたなあ」と思ったからだ。
すげえ嬉しかった。今でもそのコマフォトは大事に持っている。

コマフォトには誰だって載るのだが、学校で表彰されるあの感じだと思う。
今でも載ってると少し嬉しい。

頑張っている人をちゃんと見つける文化になればいいと思うのです。

第120回 なんの根拠もありませんが

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なんとなく最近思うことがあって、なんの根拠もありませんが書いてみようと思います。

いつになってもどこに行っても「不安」は消えないんです。
でもその不安の原因を突き詰めていくと、多分、老後に破産してしまうんじゃないか?
仕事やめなきゃいけなくなってから食っていけるだろうか?
という不安が圧倒的に大きいような気がします。

僕は奥さんも子供もいませんからまだ無責任にこんな事言ってられるんでしょうけど。
子供がまだ小さかったり、いっぱいいたりする同僚は大変だなあと思うのです。
そういう人たちに言うと怒られちゃうかもしれないですが。

僕はよく物を買います。

身体壊しちゃうくらいお酒を飲んだり、ギャンブルしたり、キャバクラにハマったり、は一切しないですし、まずいご飯は嫌いだけど、グルメでもない。
車の運転は下手だし緊張するので車も持っていないし。
前に書いたようにお一人様だから自由になるお金は多分同世代の平均より多いです。

だから、かっこ悪いけど買い物大好きです。

買い物で一番楽しいのは買うか買わないか悩んでる時と、買うものを決めて探している時だと思うんです。
インターネットは、いまやそのためにはものすごく有能なツールです。
何か必要になって、欲しくなって、その物について調べている時にいろんな情報に出会います。それも楽しい。
世界中から送ってもらう事ができるし、いらない知識ばかり増えていきます。

よく買うのはスニーカーで、僕がお店で靴を買う様を見て、「ティッシュを抜くように靴を買う」と表現した人がいて、上手いこと言うなあーと感心した事があります。
そう言う時も、実はすでに徹底的に調べています。
欲しいと思う靴と出会ったとこだけ見たら、確かにティッシュを抜いているように見えるかもしれませんが、そうでもありません。

自分の中にある、その物を買うか買わないかの基準は、それを買ったら「気分が上がるか、上がらないか」です。
買いたい物のことを調べて、いいんじゃないかと思ったら、それでどれだけ楽しくなるかを考えます。想像するっていうか妄想するんですね。本当に欲しいものはどんどん欲しくなるしいらないものは欲しくなくなっていきます。

欲しいと思ったものが何日かたつと欲しくなくなる感覚は、寂しさを伴った安心のような気持ちなんですが、
実はその気分があまり好きではない。

欲しいと思ってそれを欲してる状態がやっぱり気持ちいいからです。
何も欲しくない時は、元気がない時やそれどころじゃない時が多いからかも知れません。
まあ、ものだけじゃなくて旅行やコンサートや映画を見るのもそうなんですけど。

日本に住んでるからこんな事言ってられるんだろうなあ。
平和でバカみたいですね。
幸せなバカですが。本当に平和な場所で暮らしてるなあ。

そして最近思うのは、お金は使うと戻ってくるということ。
根拠はありませんが。

家を買って、大きい借金をした時は大きい仕事が増えたりします。
頑張らなきゃなあ、と本気で思うからなんだと思います。
気合いが電波となって人に伝わる。
ちなみに2回買ったマンションは、2回とも買った時より高く売れました。
使わないと当たらないラッキーもあります。

Facebookに、買ったものを自慢に見えないように苦労して、アップしたりすると、その物に関連した仕事が舞い込んできたりします。
不思議だなあ、と。
よく考えると、買った物について楽しそうに語っていると、「ああ、君、そう言うのにも詳しいの?」と思う人がいて、たまたま担当してたりすると声をかけてくれるのでしょう。
そう言う意味でCM作る商売はいい商売ですね。趣味の情報が、仕事に活きる知識になる時がある。
いらないと思いがちな知識もあながち無駄じゃない。

田舎の母親は、たまに会うと、
「貯金ばせんばいかんばい」といつも言います。
「少しはあるんだよ」
「ハワイに行きたくていつも500円玉貯金してるし。
2年で30万円貯まったんだよ」と。
「そげんことじゃなかばい」

僕が2年浪人した時、父親から、
「お前が浪人しなかったらベンツが買えた」と怒られましたから、本当は自分の物買ってないでお金を返さなきゃいけないんですね。早いうちに返さないといなくなっちゃうし。

そう思いながら、こんな風に自分の物欲を正当化することを気楽に書いていますが、生活が楽しくなって元気が出るなら、お金は使った方がいいなあとも思うのです。
「なんかあったら」とその「なんか」を特定できないのに漠然とお金を貯めるよりは全然いい、と僕は思います。

冒頭に書いた「不安」、つまり老後の生活のため、病気の心配などは本当に拭い去れないんだけど、楽しくなることを我慢して、老後の病気に備えたりしてたら何が楽しくて健康に生きてるのかがわからなくなるという不安を産むんじゃないかと不安になります。

そんなの、人それぞれですからなんとも言えませんけどね。
貯金が趣味の人もいらっしゃいますから。
好きなことやってればいいだけですな。

自分は、なんかにお金を使う事で「快適に暮らしたい」の他に、「新しい何かに出会いたい」と思ってるんだと思います。
本を買うときとか旅行に行く時のそういう気分。
自分で稼いだ金で、元気なうちに新しい何かに出会って自分の可能性がもっと広がったような気分になる。
日々の寂しさや漠然とした老後の不安に勝つ、自分の手法なんじゃないか?
それが自分にとっての散財の快楽なんじゃないか、と消費の欲求を正当化してしまうんです。

それどころじゃない人もたくさんいる中で呑気な話ですが。

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